‘戦争の話’ カテゴリーのアーカイブ

原子爆弾と焼夷弾

2011 年 8 月 15 日 月曜日

放射線障害のリスクが降りかかる原発事故は、人々があらためて広島、長崎の原爆に着目するきっかけを与えています。
広島、長崎への原爆使用は決して忘れてはならない出来事で、人類が深く記憶に留めることが、原爆使用の抑止力となっています。
核の脅威が戦争の抑止力となっている、というのが核保有国の論理ですが、広島、長崎で実際に起きたことが忘れられてしまえば、核兵器は戦争の抑止力としても意味をなさなくなるでしょう。
しかし、東京大空襲で開発・使用された別の「新型爆弾」は、抑止力にもならずに、ベトナムでも使用され、イラクやアフガニスタンでも使用されました。
使用された国(日本)の叫びが世界へ届かなかったことが残念です。
東京大空襲以前に使用されていた通常爆弾は軍需工場などの軍事目標を攻撃するためのものでしたが、都市ごと壊滅させて日本の降伏を早めることに戦略が変更されると、木造の日本家屋に効果を発揮するものとして開発中であった新型爆弾が東京で使用されることになりました。
この新型爆弾というのは、親爆弾に子爆弾(集束焼夷弾)が組込まれ、空中で分解して落下する仕組みのものです。
ベトナムではナパーム弾、イラクやアフガニスタンではクラスター爆弾として進化しています。
焼夷弾(子爆弾)は直径8センチ、長さ50センチの金属筒で、落下すると、黄燐、テルミット、油脂などの焼夷剤が広範に飛び散って激しく発火し、木造家屋は火災となり、焼夷剤を浴びた人々は焼死します
日本家屋の瓦屋根の貫通力を高めるため、金属筒には姿勢を垂直に保つ細長い布のリボンが取り付けられていました。
橋や軍用車両などの軍事目標の破壊を目的としたものであれば不必要な構造です。
一般市民の生活圏の無差別爆撃を目的として開発された爆弾であることは明白で、1945年3月10日の東京大空襲、3月13日、14日の大阪大空襲では、日本を代表する東西の大都市が焼け野原になり、10万人以上が死亡しています。
核兵器はもちろんのこと、一般市民を攻撃目標とする非人道的な兵器がこれ以上使用されることは許されません。
戦争の悲劇体験を風化させてはなりません。

戦争の話(終)

2010 年 9 月 18 日 土曜日

<橋爪一郎従軍記>

   面子(メンツ)の巻

 支那の人は、人の面前ではずかしめられる事をとてもきらいます。日本人だって同じだと言えばそれまでですが、日本ではとても考えられそうもないことがいくつもあります。今日の話はその一つです。

 支那の人は「面子」をとても重んじます。面子を重んずるとは、「その人の顔をたてる。」とか「その人をはずかしめない。」などの意味です。

 こんな事があります。誰かが人の物をだまって持って行く。しかも借りるのではなくてぬすむのです。ぬすまれた人がそれに気づいて、そのどろぼうを追っかけて行きます。「おい、こら、どろぼう!その品物はかえせ。」とどなりつけます。すると、どろぼうの方はその品物をかえします。ここまでは日本と同じですが、それから先がへんです。その品物を受取ってからまで「おい、こら、どろぼう、」など呼んでいると、今度は反対にどろぼうの方がだまっていません。「品物は返しているじゃないか。返したのにどろぼうなどとはけしからん。」というわけです。あんまりやかましくなると、取られた人がどろぼうの方にお金を出してことわりを言う、こんな事にならぬとも限りません。どろぼうだって人間、ちゃんと「面子」があるわけです。「おれの顔をよごすな。」というわけです。こんな具合ですから、どろぼうの方は、取って見つからなくて丸もうけ、見つかっても返せばもともとです。支那ではうっかり油断は出来ません。

 所で、私たちは、この辺の具合をよくまねしたものです。兵隊二、三人でまんじゅうなどを買いに行きます。一人が店の大将に「これはうまいか、あれはうまいか。」とか「そりゃ高い、こりゃ高い。」などと、わざとからかって大将を腹かかせます。こうしているうちに、外の者は店の品物をさっさとポケットに失敬しています。うまく見つからねばそのまま、見つかったら、返して逃げて帰る。ざっとそんな調子で、ずい分、支那の人たちをいじめたものでした。戦争の兵隊は、悪い事をして、つみもない支那の住民を困まらせました。私もその中の一人で、支那の人にすまないと思っています。

戦争の話(34)

2010 年 9 月 17 日 金曜日

<橋爪一郎従軍記>

   お風呂の巻

 日本人は入浴好き、支那人は風呂ぎらい、西洋人は中位と言われています。西洋人が一週間に一、二度の入浴で、日本人が毎日の入浴習慣、そして支那人が一ヶ月に一度か、二ヶ月に一度の入浴です。話で聞いたばかりの時は、まさかそんなバカげた事が、と思っていましたが、支那で過しているうちに、うそでなく本当であることがよくわかりました。

 実際に支那人の多くの者が風呂には入らないで平気でいます。私たちは戦争の合間に、何とかかんとかして風呂には入ろうとするのです。私もずいぶん色々なかっこうの風呂には入りました。お酒を作るオケの中にお湯を入れて入って見たり、大きなナベを見つけて、その中に入って見たり、自動車部隊がすてて行ったガソリンのドラムカンで風呂を立てたり、・・・・こんな具合です。こんな色々のお風呂の中で、一番入り心地の良かったのは何といってもカメぶろでした。土(ドロ)やきの大きなカメ、ミソガメやショウチュウガメや死んだ時のカンオケガメなどをさがし出して来ます。誰かが「おーい、温泉があったぞー」など呼ぶと、五、六人の者がさーっと走って行っては、かついで来ます。石を積んでかまどを作り、水を半分ばかり入れてわかすのですが、もともと泥ガメですからなかなかわきません。横の方ではナベやカマでお湯をぐらぐらとたきます。このたぎり湯をまぜては程よい風呂かげんにするわけです。これが何とも言えないいい風呂で、足をまげて尻もちついて丸くかがむと背中がぴったりカメにくっついてちょうど良いぬくさです。と言っても、上手には入るには、又、なかなかの苦心もあるものです。うっかりカメの外がわにさわるとススでまっ黒、お湯がこぼれ出るように深くは入ると「ジューッ」と火は消えて灰けむりです。カメが割れたらそれこそ大変です。顔中、体中、灰だらけで地獄からはい出て来たようなかっこうは見ていて笑いの止るものではありません。

 所でこんな風呂はもちろん兵隊の発明品で、支那の人はカメぶろなんかにはは入りません。おけでの行水が主で、時たま家の中にほんとうの風呂場がある位です。

戦争の話(33)

2010 年 9 月 16 日 木曜日

<橋爪一郎従軍記>

   苦力(クウリー)の巻

 どこの国にも、大金持ちの人とそうでない人とあるようですが、この事が支那では特に目立ちます。

 お金持ちでない人の中に、苦力とよばれる人たちがあります。大金持ちの者は、この苦力をたく山やとって色々の仕事をさせるのです。苦力は安いお金で仕事について、着る着物は汗まみれ、食べ物はまずく、夜休む所も小屋みたいな所です。ここに書いている絵(挿絵。省略)は、苦力の仕事の一場面ですが、こんな苦力の姿が私の頭の中からなかなか消えようとしません。これは、大きな船を川の土手から川上の方へ引っぱって歩いているようすです。上半身ははだかですっかり土色にやけています。長いつなを肩にかけて十日も二十日も、ただ、だまって引いて行くのです。支那のあちこちの長い川には、一人で引いている舟、二、三人がかりで引いている大きな船などがそこここに見えています。(十五年ばかり前のことですからポンポン言う発動機船は見当りませんでした。おそらく今頃も苦力が舟を引いている事でしょう。急ぐ必要もなく、高いガソリン等より苦力が得でしょう。)

 何人もの苦力と話したことがありますが、どの苦力も早く金持ちになっておよめさんをもらいたいと言っていました。およめさんもお金で買うのですから大金持ちは何人ものおよめさんがあってもいいわけですし、反対に苦力などは一生およめさんなしで暮す者も多勢いるわけです。

 苦力の食べ物は大てい一番安いあんの入っていない麦粉のマントウ(まんじゅう)に生ねぎ、にんにくなどです。一日分の食費十三銭ぐらい(普通の人は一円ぐらいの時)という事でした。兄弟とも離れ、人間なみの食べ物も食べられず、毎日々々が重労働の苦力はほんとにかわいそうでした。話に聞くドレイそっくり、日本の牛馬みたいな支那の苦力が、いつ頃から、どうして出来たものか、くわしくは知りませんが、世の中が進めば自然と苦力もなくなる事でしょう。

 支那では、一番あわれなのがこの苦力で、この苦力のすぐ上が兵隊でしたので、私たち当時の兵隊は『日本軍人』といばっていても、たかが知れていたわけです。

戦争の話(32)

2010 年 9 月 15 日 水曜日

<橋爪一郎従軍記>

   水牛(シュイニウ)の巻

 前号で馬の話、このままでは支那の牛から文句が出そうです。支那の牛には二通りあります。一つは日本の牛と同種類です。これは北支那の方に多く南支那の方ではめったに見当りません。支那の中ほどから南には水牛がたく山います。どこの農家にも二、三頭の水牛は必ずいます。角が大きく力が強く体はまんまるく太って象のような感じがします。灰色のものと桃色のものといます。気はやさしくて力持ち、背中に人間の子供を乗せて、ゆうゆうと遊んでいます。水牛は暑がりやで、夏の暑い日は水の中にずんぶり沈んで、角、耳、目鼻ぐらいを出しています。

 戦争中には水牛を何頭も取って来て(どろぼうですが仕方ありません)、背中に荷物をどっさり乗せます。前から引っぱってもなかなか進みませんので、鼻から引いた長いつなを持って水牛のお尻をたたきながら追って行きます。鉄砲を肩にして、牛を追い追い前進して行く日本の兵隊さん、こんな風景が大体、支那での戦争の私たちでした。

 この水牛、非常な意地っぱりで、一度水中には入りたいと思ったら最後、止められるものではありません。背中に米や塩など乗せたまま、ずぶずぶと川の中へ沈んで行きます。背中にゆるくしばっておくと道々荷物が落ちるし、しっかりくくりつけておくと「さあ」と言うときに荷物の取りはずしが間に合いません。一度や二度は大ていの者が失敗して、いろんな品物をずぶぬれにするものですが、そんな時のその人のあわてぶりは、見ていると実にゆかいなものです。水牛が川の深い所へずんずん行って大事な品物を台なしにすることもありますが、もともとどろぼう牛の仕業ですから、ばち当りとあきらめるより仕方ありません。

戦争の話(31)

2010 年 9 月 14 日 火曜日

<橋爪一郎従軍記>

   馬(マー)、騾(ロー)、ら馬の巻

 昔から誰言うとなく「南船北馬」の名があります。広い支那では北の方と南の方ではずいぶんと変ったことが多いのですが、第一、言葉が全く違っています。そして北の方には船が殆んどなく南の方では馬が見あたりません。つまり、支那の南の方では物を運ぶのに舟を使い、北の方では馬を使うのです。

 支那の馬には三通り、日本の馬と同じの馬、この馬の半分ぐらいの大きさの「ろば」、そして馬と「ろば」のあいの子の「ら馬」で、ら馬は馬ぐらい大きく、馬よりも力が強く、子供をうみません。私は三月二十三日付で小銃部隊(ドンとうてばたまが一発とんで行く鉄砲)から重機関銃部隊(五百発のたまが続いて出る機関銃)に変りましたので、その日から馬と一しょに暮らすことになりました。私の馬はまっ黒の「ら馬」で気の短い馬でした。感の強い馬で良くなつき、「足」と言えば足をあげ、「口」と言ってあごをにぎると、おとなしく口を大きく開けております。私を乗せて走ったり止ったり、私の心がそのまヽ馬に通ずるぐらいきびきびとよく動いてくれました。でも、そんなになるまでには、私の尻の皮は何回か、この「ら馬」にはがされています。広い支那の北から南まで何千里かを私が無事に過ごせたのはこの馬のおかげです。

 馬は大好きです。馬を見ると支那を思い出します。この間から中辺春の馬が足首を痛めて血を流していましたが、何とも言えない気持ちでした。戦争で腹を射たれて死んだ馬、鼻を射ち抜かれてひとりでは水を飲めなくなった馬、水深いたんぼに足を取られてとうとう動けなくなった馬(この馬は、おがみながら射ち殺しました)背骨はきずついてうみが流れ、足の爪はすり減ってもただだまって歩き続けてくれた戦争の馬、私の頭には様々の馬が動いています。今も、支那の北半分の大陸では多くの馬がたくさんの荷物を積んで馬車(マーチョ)を引っぱっていることでしょう。私の馬は今も生きているなら二十才位、どこでどうなっているだろうかと思います。

戦争の話(30)

2010 年 9 月 13 日 月曜日

<橋爪一郎従軍記>

   そう式の巻の(2)

 泣き人とは字の通りに泣く役目をする人のことです。何と言っても悲しいはずの「そう式」ですからみんな泣きたいのは当然です。それで支那でも泣くわけですが、珍らしいことに支那には泣くことを商売にしている人があります。この泣き人という人は、何ぶん小さい頃から練習に練習を重ねていますので、みんな名人ばかりです。そう式の先頭に立って続けざまにわんわんおんおん泣き声を出してくれるのです。それはほんとに悲しそうな泣き声です。でも不思議なことに、その泣き人の目には一しずくの涙も出ていません。行列の先頭で、道々、あちら見こちら見しながら、まるで笑ってるような顔をして長い道を泣いて行きます。泣き人が多ければ多いほど悲しい泣き声は村のはずれまで聞えて行きます。泣き人の多いことは棺桶のりっぱさと共に徳の高い盛大なそう式であるわけです。大きい棺桶は何人もでかつぎ、棺桶の後からは、白い長いふさのついた魔よけの棒を持ったお坊さんがガラランガラランと鐘をならしながらおごそかについて行きます。

 支那のお墓は割合に浅く、大ていは山の中腹に、棺桶のまわりに土を盛って小高い丘のお墓になっています。お墓の上には小石が高く積み重ねてあります。これはちょうど小石の塔みたいなものですが一番上の石は広く平べったい石になっています。このまじないは多ぶん鬼を払うものでしょう。そう式を盛大に行う支那の人を皆さんはどう考えますか?

戦争の話(29)

2010 年 9 月 12 日 日曜日

<橋爪一郎従軍記>

   そう式の巻の(1)

 支那のどこの家にもある大きな品物の一つに棺桶があります。日本のふとんを入れる長持みたいな大きな箱ですが、とても重たいものです。板で作った箱ではなくて四角い柱ばかりで作った箱です。フタは少し山形で、全体、内、外みんなウルシで塗り上げたすばらしい棺桶です。一つ作るにも高いお金がかかるということです。この棺桶は、まだ生きている人が自分の物に用意しているのです。少しひどい言い方ですが、支那の人は自分の棺桶を作るために一生せっせと働いているのです。すばらしい棺桶で死んで行った人が一番偉い人としてみんなにあがめられるのです。

 別な話ですが、私たち兵隊は、この棺桶によく寝たものです。寒い日はフタをして暖かく、カの多い夏は、少しむし暑いが、かやの代りにしてなかなかいいものです。私も大金持の金ピカの棺桶を見つけて寝た事がありますが、その時そのまヽ死んでいたら今頃は一番偉かった人としてみんなの人にあがめられていたというわけですが、・・・・・・・。

 さて支那では、お年寄りの人から順々に亡くなっていかれる事は、天の神のおまねきだとしてあまり悲しみません。子供が死んだり誰かが早死したような時は、それこそかわいそうなくらいひどく悲しみます。棺桶の用意が出来ないまま死ぬ事はそんなに残念というわけです。支那の人は死んで財産を子供に残すのではなく、働いた財産全部を自分のそう式の費用にあてる風習があるのです。そして又、お墓を大切にし先祖を大切にする事も外の国におとらぬようです。

 所で私は支那にいる間に三度だけ、そう式の実際を見ました。日本とちがう所の一つに、そう式の列の先頭に「泣き人」という人が通ります。

戦争の話(28)

2010 年 9 月 11 日 土曜日

<橋爪一郎従軍記>

   とういもの巻

 今年は雨の降らない梅雨で、辺春の畑も、いも植えにお困りだろうと思います。

 「とういも」は唐芋と書いて「からいも」とか「さつまいも」とか言っていますが、漢字の通りに唐(支那)の国が原産だろうと思います。さて、支那では、白薯と書いてパイシュウと言っています。「唐芋」と紙に書いて「ユー・メイユー」(あるかないか)と聞いても通じません。

 支那のとういも植えは、相かわらず、のんびりしたものでした。広い畑のところどころに -二間(ケン)ま四角に一ッぐらい- 種芋をたてに植えます。するとやがては芽が出て、つるがのびて、はびこって畑一面が芋畑になってしまいます。日本の西瓜(スイカ)、南瓜(カボチャ)畑みたいなものです。ところがこんなことで結構に芋がはいるのですから不思議なくらいです。日本の畑でまねしたら、つるばかりでとても実がはいろうとは思えません。

 出来た芋は、うすく切って日にほして、からからに乾いた所で、石うすで粉にして保存しておきます。だんごにすると、まっ黒い田舎こんにゃくのようなのが出来て、甘くて、見かけよりもおいしいものができます。支那には家ごとに、この芋の粉がたくわえられています。米がとれなくても、急にはうえ死しなくてよいわけです。芋のつるの方は、全部かりとって、日にほし上げています。これは冬の間の水牛の餌になるわけです。

 芋がうんと取れればみんな嬉しいし、芋のつるばかりはびこったら水牛のために嬉しいし、支那の人はいつも天に感謝していました。ただ、日本の兵隊(私たち)が戦争で田んぼも畑も台なしにしてしまう事には心から迷わくしているようでした。

戦争の話(27)

2010 年 9 月 10 日 金曜日

<橋爪一郎従軍記>

   田植えの巻

 国道から眺めた辺春の田んぼは緑一色にぬりかえられて秋の実のりを夢みています。いかにも科学の国らしく、行儀よく、きちんと植えられた日本の田植えを見る度に思い浮べるのは支那の田植えです。

 支那も、ここは暖い南支での見聞ですが、年に三回の稲刈りには、私もちょっと驚いた者の一人でした。田植といっても苗代は作らないので、田んぼに直接、米の種、モミをまきます。この時は田んぼ一面に十文字に、たて、横、つなを張って、その四角の中にモミをチョンチョン置いていきます。やがて芽が出て、花が咲いて、米の実がなることは日本と同じです。ちょっと違うのは、米の木が五〇センチ位にふとった頃に、その稲の間々に二度目の種まきがあることです。いよいよ最初の稲刈りが始まる頃には、二度目の稲が青々とふとっています。そして二度目の稲が実のった頃には、初めの稲の切り株から青い芽が田植えのように茂っています。この切り株からの稲の穂にもやがては米がみのって三度目の稲刈りが始まるわけです。田の草取りもめったにしないで自然の恵みだけで結構に暮して行ける支那の生活は、戦争で殺し合っている兵隊の私にはうらやましいものでした。

戦争の話(26)

2010 年 9 月 9 日 木曜日

<橋爪一郎従軍記>

   喧嘩(ケンカ)の巻

 日本の喧嘩は、悪口の言い合いから殺人まで、軽いの重いのいろいろで、一口にケンカと言っても、どの位のかよくわかりません。支那では、喧嘩(シェンホウ ただ、さわぐだけ)、相罵(シャンマー 悪口の言い合い)、打架(ターチャ なぐり合い)などと、ケンカにもだんだんあります。

 面白いことに、夫婦喧嘩があります。一番に、嫁さんが家の出口に出て、むこさんの悪口を泣きながら大声でわめきます。これは、通行人に自分の正しいことをみとめてもらうためで、これには相当心ぞうの強いむこさんも参ってしまうわけです。勇ましい嫁さんは、近所の嫁さん達をつれて来て、むこさんをたたきのばしてしまうこともあるそうです。(これは見たことがありませんが。)きのうは母の日でしたが皆さんのお母さんはお強いでしょうか?

戦争の話(25)

2010 年 9 月 8 日 水曜日

<橋爪一郎従軍記>

   花嫁さんの巻

 お金持ちは何人もの嫁さんがいて、話していて誰が誰か分らない時があります。貧乏な人(苦力(クーリー)など)はお金がたまるまで花嫁さんを貰うことが出来ません。苦力に「お前は太太(タイタイ 奥様)あるか」など聞くと、とても残念がる事があります。花嫁さんは、にない棒のついた腰掛けのある家(箱)みたいなものに乗って行きます。八名のにない手、親族の者、見物人、そしてパンパンいうバクチクの花火と、なかなかにぎやかな行列です。にぎやかで盛大なのがよい花嫁さんで、私も、一度、にない手になってお酒を御ち走になった事がありましたが、親族の者たち、とても喜んでいました。私も喜んでいました。

戦争の話(24)

2010 年 9 月 7 日 火曜日

<橋爪一郎従軍記>

1963年度の「学級通信」に一年間連載された「戦争の話」は終わりましたが、その数年前の1959年度の「学級だより」(辺春中学校一年二組)にも、戦地中国に関するエッセイが連載されていましたので、その中からいくつかをピックアップして掲載します。

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   お早よう。の巻

 ニン、チ、ラ、ファン、ラ、マ(あなたは、ごはんは食べましたか?)

 日本では、「今日(コンニチ)は。よか天気になりましたの。」とか、「くもりました。」「ふりそうですね。」「寒(カン)がしますのー。」など、朝の挨拶は天気予報一点ばりです。支那では、いきなり「飯は食うたか。」が「お早う。」です。日本の昔の侍の子供が、腹がへっても「ひもじゅうない。」と言わされていた事とくらべて、支那の人が、食べることに、どんなに気をくばっていたかがわかります。(自分ばかりいいものを食べないで、食べていない人には分けてやる位の気持ちは持ちたいものです。)食事は、一家、家中そろって家の前(日本なら玄関の所)で、立ったり、坐ったり、いかにも楽しそうに食べます。(みんな腹一ぱい食べた時、これがお早う。朝から天気の心配をしている私たちより、ちょっとほほえましい所がありそうですね。)

戦争の話(23)

2010 年 9 月 6 日 月曜日

<橋爪一郎従軍記>

   南京への巻

 支那へ這入ったとたんに、夏のかまえのスッカラカンになりましたので、たまったものではありませんでした。汽車の中でも夜はぐっと冷えこんで、みんなブルブルです。一かたまりになって、体を体でぬくめているうちに汽車は南へ南へと走りました。窓ごしにチラホラ見える外の景色は、だんだんと風変わりになって、最後についたのが南京でした。日記文によると、南京着三月二十九日ですから、まるまる九日間を汽車の箱の中だけですごしたわけでした。

 南京では、初めて見る揚子江(ヨウスコウ)の大きさに先ずびっくり、この川を舟でわたって、ここに四月十日までの十二日間を体ならしですごしました。鉄砲をもらい、鉄かぶとをもらい、ここで、すっかり戦争の用意が出来上りました。けれども残念なことには、鉄砲の中の半分は日本製ではなく、支那兵のもっていたもの(ぶん取り品)でした。鉄かぶとも全員分はなく、一等兵以下は持ったり持たなかったりのあわれさでした。鉄砲は的をねらっても、丸(タマ)は、全然的はずれ、音だけは大きくて、どっちの方へ飛んでいるのかさっぱりわからないといった有さまです。この頃は、日本は負け始めていたことになりますが、それでも私たちは、ヤマトダマシイで絶対に勝つ覚悟でいました。

 南京で、とくに印象に残りますのが、米がもち米であったこと、支那人(苦力クーリー)の臭かったこと、何とか大尉が飛び下りたという光華門(?)の城壁の高かったことなどです。

 所で私たちは、まだ行先きを知らないままです。

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(学級通信、1学年連載終わり)

戦争の話(22)

2010 年 9 月 5 日 日曜日

<橋爪一郎従軍記>

   南国だったのかの巻

 まっ黒い貨車にとじこめられたままで、三日か四日か運ばれている間に、汽車の中がだんだんと暑つ苦しくなって来ました。皮の外(ガイ)とう(オーバー)をぬぎ、毛皮の靴をぬいでもまだむし暑く、汽車の中は、いよいよ、体の置き場所もないくらいに品物で一ぱいになりました。寒い国へ行っているはずであるのに、日に日に暑くなるとは不思議でなりません。どうも変だ変だと言っているうちに、私たちの汽車は、変なはずである所に着きました。そこは、(今の中共の中の)満州と支那の国境である山海関(サンカイカン)でした。今までよりもずっと南ですから暖かいはずで、着れるだけ着ていた冬の服装でのせまい汽車の中は暑苦しいにきまっています。ここで全員初めて汽車から降りました。ほっと一息つくひまもなく、上官の命令です。「みんな良いかッ!!直ちに次の事を実行せれ!!」「一ッ汽車の中には紙くず一枚も残してはいけない」「一ッ官物(軍隊のもの)はすべて返納せろ、フンドシ一枚でも持ってはいかん!!」私たちはここで、満州からの品物は一ッ残らず満州に返して、新しい服、新しい帽子、新しいタオル、フンドシまでもらいました。鉄砲も玉も返してしまいました。そして体につけたものは、防暑帽をはじめ、何から何まで南洋の熱帯地方の服装でした。上は半袖夏シャツ一枚、下はダブダブの半ズボン、誰でもひざから下はヒゲムジャのひょろ長い足まる出しです。半ズボンの下から風がスウスウはいって気が気ではありません。鉄砲も持たず、剣も持たず、丸腰のままの兵隊になってしまいました。再び貨車に乗りこんで、汽車は更に南へ南へと進んで行きました。今度は広すぎる貨車の中で寒さにふるえて一かたまりの旅を続けました。

戦争の話(21)

2010 年 9 月 4 日 土曜日

<橋爪一郎従軍記>

   まっ白い兵隊さんの巻の(2)

 二月二十五日から三月二十三日までは原っぱ生活、私の一生で一番寒い経験になるはずです。あの時の事を思いますと、日本の冬はやさしいもので、寒いなど言えそうにもありません。全身・全物まっ白ずくめの原っぱでの演習は苦しみを通り越して、地ごくの底を行くようなものでした。歩き始めたら、夜昼かまわず三日も四日も歩き続けて、目のふちや鼻の先は黒くこげついてしまいました。何人もの友達が、雪の中に頭を突きこんで死んで行きました。早く見つけて、メンター酒(シュ)を飲ませると生き上がりますが、ほうっておけば氷ってしまいます。(死ぬ前は、大ていが雪の中に頭をもぐらせます、わけはわかりません。) ここ牡丹江(ボタンコウ)での生活も終りに近づいて、二十三日、私達はまっ白の完全軍装に身を固めました。毛皮の外(ガイ)とうで、体は雪だるまのようにふくれ上りました。いよいよ、どこかの戦地へ出発です。にぎり飯は各人一週間分、四十づつばかり持ちました。一週間ばかり「糞(クソ)」をたれないようにと薬(アヘン類)を飲まされました。汽車はまっ黒の牛馬の貨車で、上の方に小窓がついているだけ、外は空が少し見えるだけです。命令が出るまでは、戸を開ける事は一切禁止で、どこをどう走っているのか皆目(カイモク)わかりません。私たちは馬なみで、腰掛けも何もなく、のびのびと寝るだけの場所もなく、壁に寄りかかったり、くの字に曲って寝たり、日に日にくたびれながらレールの上を運ばれて行きました。小便する時だけ、一寸(チョット)だけ戸にすき間を作って、「ジョー」(男だから便利)、情(ナサケ)ない旅は続きました。

戦争の話(20)

2010 年 9 月 3 日 金曜日

<橋爪一郎従軍記>

   まっ白い兵隊さんの巻の(1)

 牡丹江(ボタンコウ)の原っぱでの一ヶ月はつらいものでした。0(レイ)下三十度の日もある二月の末で、土の上にごろね、家は布の天幕ですから夜はたまったものではありません。幸いに伍長ですから天幕のまん中の炭火のそばにねて、わりといばったものではありましたが。雨は絶対に降りませんので毎日が戦争のけいこばかり、歩けば寒いので、大てい走りまわります。疲れて帰えれば夕飯とねる事が楽しみ、風呂は全然ありません。ねると言っても、服のまま、時には靴のままですから誰もがよごれっぱなし、不衛生な話です。でも後で考えると、ほんとうの戦争そっくりの生活でしたので、ためになる一ヶ月だったわけです。

 三月にはいって、何もかもまっ白い服になってしまいました。帽子から靴から鉄砲まで、馬も馬車もまっ白い布をかぶって、完全白色です。はげ山では人も物も雪に見え、くぼみの雪山では何にも見えません。まっ白の兵隊の、まっ白い雪山を見つけての演習が何の目的であるか、さっぱりわかりません。そのうちに誰言うとなく、北海道へ行くげな、千島列島げな、樺(カラ)太げな、さてはシベリヤ突入だ、日本軍全滅のアツッ島うばい返しだと、うわさはいかにも本当らしくひそひそ話をしたものです。私はひそかによろこびました。「北の方はまちがいなし。」「北へ行くのに危い海を舟で行くはずなし。」すると「必ず日本を通って北の国のどこかへ行くはずである。」「よし、それなら手紙をうんと書いてためておこう。」(その頃、手紙は禁止されていました。)「もう一度、日本を見る事が出来るのだ、バンザイ。」その頃から、私と同じ考えらしく、こっそり何かを書いてはひとり笑いをする精神病見たいな者がふえました。

戦争の話(19)

2010 年 9 月 2 日 木曜日

<橋爪一郎従軍記>

   ペーチカよさようならの巻

 昭和十九年二月二十五日、午前二時、「非常呼集」のラッパがま夜中のやみになりひびきました。「またかッ」と思いながらとび起きて軍装をととのえました。上官は「第一装(戦争の服)で出ろ、開戦だ」と言っていますが、こちらは、伍長にはなっているし、「また練習だろう」と思っているので、重たい物や大切なものはそのままにして、平素ためていたキャラメルやヨウカンなどを背(ハイ)のうにつめこみました。夜明けまえ、いよいよ出発、みんな「ふっふー」言っています。私は「すたこらさっさ」で身軽るなものです。「もう、だまされんぞ。」しかし、これがまちがいでした。とうとうそのまま行って二度と住みなれた第三〇六部隊の兵舎へは帰ってきませんでした。零下三十度であっても、私たちを暖ためてくれた大きなペーチカとも、私の大事な写真や記念品などを入れた整とん箱(戸だな)とも永遠の別れで、今もなほ、なつかしさと、おしさが胸にせまってきます。ペーチカは二人でやっと取りまける大きさで銀色に光って円とう形、部屋の片すみにデンと坐って天井をつきぬけています。屋根の上はま四角でサンタクローズがは入りそうな煙とつになっています。石炭を一晩中たいて部屋の温度を上げるのが二等兵、一等兵の仕事でした。たりない石炭を、よその中隊から、こっそりぬすんでくるのも、あわれな新兵の仕事、ペーチカで涙を流し、涙をかわかしたのも思い出です。

 私たちはその日のうちに、牡丹江(ボタンコウ)の雪の草っ原について、この日から三十一日間、天幕の家で寒空をすごしました。

戦争の話(18)

2010 年 9 月 1 日 水曜日

<橋爪一郎従軍記>
   やりそこねの巻
 兵隊の位はなかなか上りません。成績が良くても上等兵になるまで丸一年、その上の兵長になるには丸三年、下士官の伍長になるには四年も五年もかかるのが普通です。私は、兵長にはならないままで、丸一年で伍長になりましたので、同じ日に入隊した友達には気の毒でした。早く進級するかわりに、毎日毎晩がたたかれどうしで、その点では友達の方が同情してくれたほどでした。兵隊になって丸一年目の一月十日は、待ちに待った日、金すじに一ッ星の伍長になる日、兵長以下の兵隊とは別れて下士官室に寝られる日でした。初めて伍長になったばかりの私達五名は、消燈(ねる時間)になると同時に兵長ども七八名を兵舎の裏庭に呼び集めました。ふるえ上るほどに寒い晩でした。ゆうべは私達は上等兵で、この兵長どもにさんざんたたかれているのです。今日は、こっちが伍長で、むこうが兵長、今日の日こそと、大きな声で「この野郎!!兵長ぐらいでしこるな(いばるな)!!」後は、力一ぱいボカボカボカとやりました。良かったのはここまで、それから後は、こちらの方がゆうべのようにさんざんたたき上げられてしまったのです。考えて見れば、私たちは、まだ一度も人をたたいた事がなく、相手は兵隊の飯を四五年以上も食べている先輩ばかりです。たたき方も外から見るように簡単なものではありませんでした。新まいの伍長の初仕事は完全にやりそこねて、細長い顔もまるぶくれ、思い出の日が近づきました。

戦争の話(17)

2010 年 8 月 31 日 火曜日

<橋爪一郎従軍記>
   犬の飯(メシ)の余りはうまいの巻
 兵隊になって、丸一年たてば成績の良い者は三ッ星の上等兵になります。私は別の進み方で行きますので、丸九ヶ月の十月十日に上等兵に進級出来ました。昨日まで一しょだった一等兵の友達も、今日からは号令、命令で連れて行けることになります。上等兵になると、あちらこちらへ自由に行ける事が多くなって楽しみもふえ、また仕事と苦労も多くなります。腹は一等兵なみに減ってペコペコです。
 私と一しょに入隊して、体の調子が悪くて軍用犬係りになった江崎という者がいました。少しはなれた所にいて、会うことがありませんでしたが、上等兵になってやがての時でした、何げなく通ったそこに江崎がいて「敬礼」しています。「おお江崎」「やあ、橋爪・・・・上等兵殿・・・か。」その時、江崎はまるまる肥え太った二等兵でした。その後の話しをしているうちに、犬にかまれた話や犬の飯の話しになり、「犬の飯が余って困る」ということです。配給分を食わせないとたたかれるし、食わせてしまうと腹痛を起す心配があって、毎日自分で無理して犬の飯を食べているということです。「おまや犬の飯を食うて、そんなに肥えとっとばいな。」と大笑いしましたが、「犬の飯はまだある」と言うのです。おかしさこらえて行って見ると、二度びっくり。白飯に大きな牛肉がどっさりです。人間の飯よりも、犬の方がよっぽど大臣食でした。それからは、チョイチョイ行って犬の飯の余りを食べて加勢しましたが、考えて見ればおかしな話です。

戦争の話(16)

2010 年 8 月 30 日 月曜日

<橋爪一郎従軍記>

   いやな思い出かずかずの巻

 満州三〇六部隊でのいやな思い出を思い出すことにしました。何と言っても、いやな思い出、ふんどしを口にくわえて立っていなければならなかったこと。兵隊にはサル又はありません。上等兵の何の気のまちがいか、急にふんどし検査があって、「臭い」ということで、一等兵全員ふんどしの取りかえ、そして今まではいていたものを口にくわえて立って並びました。タオルならとも角、ずらりとなびいた白い布、一体戦争と何の関係があるのかわかりません。

 雨の日に、外での演習がない時は、内務班勤務といって大掃除や銃の手入れがありますが、それでも、ひまが余って上の位の者は手持ちざた、そんな時は一等兵がよい遊び道具です。柱にしがみついて、チーチーチーとせみの鳴きまね、時には、寝台の下のせまい中をホーホケキョと言いながら鶯の谷わたり、横木の柱にぶら下って、油汗が出るまでミノ虫のまね、落ちると「糸も引かんで落ちるミノ虫は新品種やね、何言うて鳴くか言うて見い。」六ヶ月間ほとんど毎晩たたかれて、口の中は黄くただれて、からいおかずを食べるのに苦労しました。一番痛かったのは、金の鋲(ビョウ)のついた営内靴(スリッパ)で打たれた時で、目からピカピカッと光りが出て、それから先のことはおぼえません(気絶)。夜の九時から朝の三時頃までぶっ通し六時間ばかり腕立てふせをした事も、二つの山をほふく前進(いざって進む)した全員が両ひざ血だらけに皮がはげてしまったことも悪夢のような思い出です。比ぶれば戦争はもっと楽なものでした。

戦争の話(15)

2010 年 8 月 29 日 日曜日

<橋爪一郎従軍記>

   命か花かの巻

 満州の春と秋は、冬と夏にはさまれて、びっしゃげています。ようやく氷の大地がとけたかと思うと、春、そして、またたくまに夏がやきついて来ます。忙がしいのは草花で、あっというまに芽が出て、つぼんで、サッと開かなければ夏の太陽にやけしぼんでしまうわけです。どの草もどの花も先をきそうて咲き乱れて一面の大花園、少し大げさに言えばどこかの国の御殿のお庭とでも言えそうな夢の国が満州の春、満州の秋でした。色とりどりの名も知らぬ花にまじって、まっ白のスズランにまっ白のインチュホワ(迎春花)は何よりもかわいいものでした。背の丈20センチぐらいの山ゆりに10センチもあるようなラッパ形のまっ赤な花がゆれているのはとても印象的でした。そんな美事な大自然の花畑の中で、いつものように戦争のけいこがくり返されていきました。「前進!!」「止れ」班長の号令一下、私たちは一目散に走り出したり、パタッとねたり、又走ったり。私は足もとのスズランのあまりのかわいさに、バタッと倒れなければならない所を、静かにそっとねていました。「コラッ!!橋爪一等兵!ここは学校じゃないぞッ!!」私が先生であったことはみんな知っていました。「花が大事か、命が大事かッ?」そしてボカボカボカッとたたかれて、くやしさで胸一ぱい、近くの一等兵は、声を立てずによごれた歯で笑っています。小さい心で、足でふみにじったスズランをかわいそうに思いながら、「花か命か、花か命か」とくり返しましたが、忘れられない満州の花畑です。

戦争の話(14)

2010 年 8 月 28 日 土曜日

<橋爪一郎従軍記>

   休戦ラッパ鳴りわたるの巻

 戦争開始で、私達は完全軍装(グンソウ)の油汗、冷汗。誰もがだまっているけれども、心の中では家のこと、親のことなど考えながら先へ先へと進んで行きました。私も『家に手紙を出しておけば良かった』『このまま死んでしまうのだろう』と胸の中は一ぱいでした。昼頃、広い野原までやって来ましたが、敵は静まりかえって何事もありません。『戦争はこんなに静かなものだろうか?』所が静かなはずです、はるか遠方よりラッパのひびき、そして私たちの部隊のラッパ手も大きな音で休戦のラッパを吹きならしました。私たちは完全にだまされていたのです。実戦通りのケイコだったわけです。ゆうべからふるえていたことがおかしくもあり、腹立たしくもあり、また、こんなにもまんまとだまされるものかと感心もし、兵隊という所がどこまで妙な所だろうかとつくづく思いました。

 実は、年に二、三回、こんなケイコがあるのですが、私は、二度目も完全にだまされ、その時も本当の戦争かと思いました。三度目は半信半ぎ、四度目は始めから、ウソだと思って、荷物は軽く、うまい食べものだけ、着物も下着の方は古物でいつもの通り、大事な品物はみんな兵舎においたままで出かけました。このことは又後で書くつもりですが、その四度目はケイコではなくてホンモノでした。昭和19年2月24日朝3時、四度目の非常呼集は忘れもしない満州三〇六部隊さようならの日だったわけです。しかしさようならの前に、もう一、二回だけ、この三〇六部隊での思い出をつづりたいと思います。休戦ラッパ後のかえり道の弾薬の重いこと、それも忘れられない思い出です。

戦争の話(13)

2010 年 8 月 27 日 金曜日

<橋爪一郎従軍記>

   戦争開始のラッパ鳴りひびくの巻

 ま夜中に「非常呼集」の合図で飛び起きて、それから戦争のケイコに出て行く事はたびたびでした。まっ暗やみにねぼけヅラ、石につまずいてひっくり返って目がさめるのが人なみで、一晩に四回も五回も非常呼集があると、ひっくり返ったまま眠っている兵隊も時には出て来ます。上等兵に起こされて、目の玉から火が出るくらいヒッパタかれて顔はまるばれ、こんどは、目がはれふさがるといった具合です。どんなにたたかれても死にはしませんが兵隊はつらいものです。

 すぐ目の前はにらみ合った敵の国、ソ連の国、とつぜん「戦争開始」のラッパがトテトテターと鳴りひびきました。さあ一大事、部隊長以下全員ガバッと飛び起きて戦争準備です。一等兵の私たちは、何だか膝のあたりと奥歯がガタガタふるえて「もの」もよく言えないくらいです。今まで着ていたものは軍服、シャツ、ふんどしまでみんなぬぎすてて新品に着がえます。靴も帽子もみんな新品(第一装)、背(ハイ)のうには十日分位の食料と大事な自分の品物など。実弾百二十発に戦車地雷一コ、パイナップル型手りゅう弾三発、天幕、外とう、円ピ(スコップ)など一式。それはまた大変な品物です。全部体につけると立ち上がるのがヤットコサ、しかし、それだけかついで整列、隊長の命令号令で敵の方に向って前進しました。あまり遠くへ行かないうちに、汗だくだく、夜が白々と明け始めました。まだ弾丸(タマ)の音は一ツも聞えません。「ああいよいよ日ソ戦争、名誉の戦死か」心の中でつぶやいて覚悟をきめました。誰の顔も汗だくのくせに青白く見えます。そして・・・・・

戦争の話(12)

2010 年 8 月 26 日 木曜日

<橋爪一郎従軍記>

   ドカンと一発の用意の巻

 ソ連との国境の守りは固いものでした。私たちが陣取っていましたカンガシ溝の近くに臼砲(キュウホウ)部隊がありました。臼砲とはうすの大砲のことで、日本の秘密兵器の一つでしたが、これは一発だけしか射てない大砲です。ドカンと一発うてば、大砲はこわれてそれまで。その代りに、弾丸(タマ)の大きさが大きいのは直径五十センチもあります。敵の陣地に必ず落ちる弾丸で、この臼砲を射つのは、ずっと離れた所の地下の押しボタンです。今のロケットみたいなものです。いざ戦争という時にはソ連へ向ってドカンです。また、国境の川の下にトンネルをほって、敵の陣地の真下に火薬をどっさり置いてあります。これもドカンです。日本軍はあらゆる手をつくして国境を守っておりましたが、ソ連の方でも私たちをねらっておったろうし、私の真下にはソ連のダイナマイトが土深く仕掛けてあったかも知れません。こうしたものものしい戦争のかまえをしているのにソ連の方は女の兵隊だから、こちらは気合いぬけです。(その頃日本とソ連は戦争をしない約束ができていました。) 私たち満州三〇六部隊は、強い関東軍の中でも特に強いと言われていましたが、この頃から一コ大隊(約五百名)ずつ、満州をはなれてビルマや南洋の方へ移って行きはじめました。だんだん淋しくなる三〇六部隊の中で、私たちはいつ戦争になってもよい構えだけは、ちゃんとやっておりました。

戦争の話(11)

2010 年 8 月 25 日 水曜日

<橋爪一郎従軍記>
   鉄砲で魚取りの巻
 ソ連国境スイ芬(フン)河の守りは命がけですが、楽しいものでもありました。河の真ン中を越えさえせねば、射たれる心配はないのですから、歩哨(ホショウ 見張り番)に立ってない時は魚取りがいい遊びでした。餌もいらない、釣り糸もいらない、鉄砲かついで、山坂下って川の側まで行くばかりですから簡単なものです。
 水は美しくすみ切って、浅く、自然のままに流れていて、遊ぶ人もいない国境ですから、まるで魚の天国です。所で魚取りは、天皇陛下にはないしょですが、川の底に、目くら打ちに五、六発ボンボンと射ちこめばそれで準備完了、鉄砲を横において、腕をまくって一、二分もすると長さ10センチから時には30センチもあるような、ふなみたいなやつがキラキラとひっくり返って浮いて来ます。す早く拾い上げて、一丁上がり、魚は当って浮いたのではなく、脳しんとうでノックアウトの状態ですから、二十も数えているとキラッと返って、泳いで逃げてしまいます。
 この河、冬はすっかり氷ってしまって、アスファルトよりもスペスペの立派な道に変ってしまいます。氷を丸くほがして(石油がんの中で油をもやして氷をとかすのですが)、釣り糸でつると時たまかなり大きな魚がつれることがあります。しかし冬は寒くて、遊びにならないのでめったに魚取りはしません。
 国境の夜は、昼間とは変って、急にぶっそうな、うす気味悪い事ばかりです。あちこちに、意味のわからない電灯の光りがピカピカと何回も光ったり、キリキリと輪をえがいたり、花火の様な照明弾が上がったり、それ等は、みんなスパイたちの暗号です。いつ後からブスッと串(クシ)ざしに殺されるか、昼の魚の二の舞が夜の私達です。

戦争の話(10)

2010 年 8 月 24 日 火曜日

<橋爪一郎従軍記>
   目の前は敵の兵隊さんの巻
 一等兵になると一ヶ月交替ぐらいで、ソ連(ロシヤ)との国境の警備に出て行きます。国境はスイフン河の水の中央です。河をはさんで、こちら(日本)もあちら(ソ連)も山でした。ウラジオストックまで約二十里、いざと言う時はそこまで一日です。その頃はソ連と日本はまだ戦争をしていませんので、どちらも割にのんびりしていました。ただ絶えず双眼鏡でお互いに相手の様子を見合っているだけです。目の前にずらり並んだソ連のトーチカをにらんでは(実はながめては)何時ごろ何人動いたと、日誌に記入していくのが毎日の仕事です。それでも、鉄砲の中にはいつも実弾をつめていました。いざ戦争と言う時の用意と、きじやのろ(鹿みたいな動物)が出た時に取って食べる用意の実弾でした。ソ連も時々ポンポン言わせます。そんな時は、やっぱりやってるなと思いました。そして何時頃どちらの方向でソ連の銃声何発と日記にしるしておきます。
 十八年の終り頃に私たちがカンガシ溝(コウ)の国境警備に行った時には不思議な事がソ連の方に起っていました。トーチカの兵隊は殆んどが女で男の兵隊はとても珍らしくなっていたのです。私たちはソ連の女兵隊を兵隊さんと呼んでいました。ソ連の兵隊さんもお便所は日本の女の人と同じようにかがんでしていました。この事はソ連も日本と同じようにトーチカには便所は作ってなかったわけです。日本一と言われた満州国境警備の私たち関東軍の目の前には、ソ連の女の兵隊さん、関東軍はまるで馬鹿にされたみたいです。それはソ連の名作戦でした。

戦争の話(9)

2010 年 8 月 23 日 月曜日

<橋爪一郎従軍記>
   星がふえて嬉しかったの巻
 兵隊は星の世界、夜の世界みたいなものです。油断をすれば、鉄砲でも、軍服でも平気でなくなり、人に見つからないように、人の物を持ってくれば上官は知らぬふりをしてくれます。兵隊では、いつどんな時でも、きまった物をきまった数だけ持っていることが一番大事で、一品でもたりなかったら、ほほっぺたの丸ばれ(たたかれて)はまちがいなしです。
 物が足りない時に、それをそろえる-員数つける-のは二等兵の仕事で、実につらいものです。どろぼうの名人になるために二等兵は死にもの狂いの努力をしなければなりません。目の玉は、ギョロリと光って、耳は、ちょう音器のようにとがっていなければなりません。
 死ぬような六ヶ月をすぎて、私は外の者より半年先に、忘れもしない七月十日に一等兵になることが出来ました。二ッ星です。今までただ一度も、号令をかけて人をつれて行ったことのなかった私は、今日からは、一ッ星の子分をつれて行くことが出来るのです。一ッ星の中には、一年も二年も前から兵隊に来て、成績が良くなくてそのまま一ッ星の者もたく山います。二年すぎて一ッ星の者を古兵殿といい、三年すぎても二等兵の者を神様とよんでいましたが、そんな者よりも二ッ星の方が位は上です。今こそヤセギッチョンの私もその頃は六十五キロをこえていましたので大きな声でいばって一等兵をつとめました。
 四月一日生れの私は兵隊の中では一番年下で、二等兵はみんな年上、いい気持でした。

戦争の話(8)

2010 年 8 月 22 日 日曜日

<橋爪一郎従軍記>
   満州は暑かったの巻
 五月上旬雪どけ、六月やきつくような真夏、春はわずか四十日ばかりです。春は花園、目もさめんばかりの忘れられない花の春の話は後にして、満州の夏の話です。
 満州の太陽は日本のよりまん丸く、昼は金色、夕方は大きくて黄色、そんな気がしました。だだっ広い荒野の端から朝日は昇って、再び土の荒野に沈んで行きます。七月はま上に太陽があって、自分の影は足のまわりに黒くまん丸くうつります。そんな時が一番暑い時、そしてその暑い最中を使って、飛行機を相手の夏季大演習が始まるのです。
 鉄かぶとをかぶって、体中すっぽりとギソウモウと言う目の荒いあみをかぶります。そのあみの目に所かまわず木の枝、草のつる、何でもかでもさしこんでつけるのですが、出来上りは、まるで一ッの人間のやぶ、人間の森です。飛行機から見えないようにぎそうして歩くわけです。こんな時は暑い寒いの段では勿論ありません。汗はタラタラ、目は汗の塩でまっかです。首すじには、白く汗の塩が筋を引きます。飛行機が来れば、一せいに座って、実弾(本ものの弾)で射ちます。飛行機が引っぱってくる吹き流しを射つわけですが、飛行機の方を射ちます。後で吹き流しに当った丸の数で私たちの成績がきまるのですが、暑さのやけくそで飛行機の方がねらわれてしまいます。暑い上に昼食は煙が出ないように火のかんづめを使ってたくので苦労と暑い事この上なし、満州の夏は地獄の火の釜でした。

戦争の話(7)

2010 年 8 月 21 日 土曜日

<橋爪一郎従軍記>
   満州は寒かったの巻
 「寒い」という言葉はまだ暖かい時に使うもののようです。痛くてどう言いようもない時がほんとうの寒さであることを、満州で初めて知りました。
 リンゴはガラス玉のように氷って、小刀の刃も立ちません。にぎりめしをかめば、歯がかげそうで、一粒もはずれません。
 炊事場の倉庫にはトウフ、コンニャク、ジャガイモなどレンガや石ころそっくり。けんかでもして投げ合うなら、コンニャクでもりっぱなけんか道具になりそうです。大便が氷り、小便が氷り、川が全部氷の道になってしまいます。
 一年中で一番寒そうな時を特にえらんで年に一度の冬季大演習が行われます。
 全身を毛皮の服でつつんで、目の玉だけがはだかのまま、鉄砲も金の所は布でつつんでしまって、めったに金の所を外に出しません。うっかり、素手のままで金をにぎったら、手の皮がひっついてはずれないのです。どんなに寒い日でも、何もかも我まんして、だまって働くのが二等兵ですから、上等兵などが火をたいてあたっていても、私たちは、ただ、まきを見つけて運んで持って行くばかりです。
「おい、二等兵寒いか?」「ハイッ、あまり寒くないであります。」「おお、そうか、そりゃ都合がよいな。」ざっとそんな調子、「ハイッ、きのうより寒いであります!!」「そうか、凍傷(トウショウ)にかからんごと動くがいいぞ、まきさがして来い。」どちらどう答えても、一冬中火の側に行きつくことは殆んどありません。レイ下四〇度、そのおみやげが今も私の左足親指に凍傷痕(アト)として残っています。