<橋爪一郎従軍記>
私の父、一郎は、私が小学生の頃、八女郡の辺春中学校の教員をしていました。
蝋紙に鉄筆を走らす音が私の子守唄でした。
当時(1963年)の、ガリ版刷りの「学年通信」の1年分(No.1~23)を保存しています。
そこに父の従軍記の連載があったからです。
父には、次の世代へ「戦争」を伝えねばならないという思いが強かったのだと思います。
今や私は、当時の父の年齢をはるかに上回っています。
さらに次の世代へと「戦争」を語り継ぐのが、父の子である私の役目です。
終戦記念日を迎えるにあたり、父の従軍記をしばらく連載したく思います。
父が本学3年生と同じ年の頃の物語です。
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勝って来るぞと勇ましく
負けて帰ったわたしの日記
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始めに。一年生を受け持って、御父兄の皆さん方にお会い出来るのも何かの縁に違いありません。私の従軍日記をお送りすることによって、紙上家庭訪問としゃれたいと思います。どうぞお笑いください。
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橋爪二等兵殿の巻
「昭和十八年一月十日 久留米歩兵四十八部隊第五中隊入隊 大日本帝国軍人陸軍二等兵となる。」これより下の位は一人もないので、掃除、洗たく、靴みがき、飯の用意から後始末まで休むひまなしの女中生活が始まるわけですが、その話はしばらく後廻しに致します。
体が強くて、兵隊にならない方法、それは学校の先生になることでした。五人兄弟の末っ子の私に、先生への道をえらばしたのは、兵隊になしたくないばっかりの、父母の考えが強かったためでした。しかし、その甲斐もなく、若松市島郷第二小学校の先生々活二ヶ年間に別れをつげて、私は兵隊さんにならなければなりませんでした。
その時二十一才、ハイカラ髪をいがぐり頭に刈り落した私の頭は青白くて、ひこくれていて、あちこちとんがって、おかしなかっこうでした。ただハゲのないのが何よりでした。
先生の洋服をすっかり軍服に着替えた私は、心の中では兵隊を嫌いながらも、どうせやるなら早く位が上ったが得だと、がんばることに決心いたしました。