2010 年 9 月 4 日
戦争の話(21)
<橋爪一郎従軍記>
まっ白い兵隊さんの巻の(2)
二月二十五日から三月二十三日までは原っぱ生活、私の一生で一番寒い経験になるはずです。あの時の事を思いますと、日本の冬はやさしいもので、寒いなど言えそうにもありません。全身・全物まっ白ずくめの原っぱでの演習は苦しみを通り越して、地ごくの底を行くようなものでした。歩き始めたら、夜昼かまわず三日も四日も歩き続けて、目のふちや鼻の先は黒くこげついてしまいました。何人もの友達が、雪の中に頭を突きこんで死んで行きました。早く見つけて、メンター酒(シュ)を飲ませると生き上がりますが、ほうっておけば氷ってしまいます。(死ぬ前は、大ていが雪の中に頭をもぐらせます、わけはわかりません。) ここ牡丹江(ボタンコウ)での生活も終りに近づいて、二十三日、私達はまっ白の完全軍装に身を固めました。毛皮の外(ガイ)とうで、体は雪だるまのようにふくれ上りました。いよいよ、どこかの戦地へ出発です。にぎり飯は各人一週間分、四十づつばかり持ちました。一週間ばかり「糞(クソ)」をたれないようにと薬(アヘン類)を飲まされました。汽車はまっ黒の牛馬の貨車で、上の方に小窓がついているだけ、外は空が少し見えるだけです。命令が出るまでは、戸を開ける事は一切禁止で、どこをどう走っているのか皆目(カイモク)わかりません。私たちは馬なみで、腰掛けも何もなく、のびのびと寝るだけの場所もなく、壁に寄りかかったり、くの字に曲って寝たり、日に日にくたびれながらレールの上を運ばれて行きました。小便する時だけ、一寸(チョット)だけ戸にすき間を作って、「ジョー」(男だから便利)、情(ナサケ)ない旅は続きました。
2010 年 9 月 3 日
戦争の話(20)
<橋爪一郎従軍記>
まっ白い兵隊さんの巻の(1)
牡丹江(ボタンコウ)の原っぱでの一ヶ月はつらいものでした。0(レイ)下三十度の日もある二月の末で、土の上にごろね、家は布の天幕ですから夜はたまったものではありません。幸いに伍長ですから天幕のまん中の炭火のそばにねて、わりといばったものではありましたが。雨は絶対に降りませんので毎日が戦争のけいこばかり、歩けば寒いので、大てい走りまわります。疲れて帰えれば夕飯とねる事が楽しみ、風呂は全然ありません。ねると言っても、服のまま、時には靴のままですから誰もがよごれっぱなし、不衛生な話です。でも後で考えると、ほんとうの戦争そっくりの生活でしたので、ためになる一ヶ月だったわけです。
三月にはいって、何もかもまっ白い服になってしまいました。帽子から靴から鉄砲まで、馬も馬車もまっ白い布をかぶって、完全白色です。はげ山では人も物も雪に見え、くぼみの雪山では何にも見えません。まっ白の兵隊の、まっ白い雪山を見つけての演習が何の目的であるか、さっぱりわかりません。そのうちに誰言うとなく、北海道へ行くげな、千島列島げな、樺(カラ)太げな、さてはシベリヤ突入だ、日本軍全滅のアツッ島うばい返しだと、うわさはいかにも本当らしくひそひそ話をしたものです。私はひそかによろこびました。「北の方はまちがいなし。」「北へ行くのに危い海を舟で行くはずなし。」すると「必ず日本を通って北の国のどこかへ行くはずである。」「よし、それなら手紙をうんと書いてためておこう。」(その頃、手紙は禁止されていました。)「もう一度、日本を見る事が出来るのだ、バンザイ。」その頃から、私と同じ考えらしく、こっそり何かを書いてはひとり笑いをする精神病見たいな者がふえました。
2010 年 9 月 2 日
戦争の話(19)
<橋爪一郎従軍記>
ペーチカよさようならの巻
昭和十九年二月二十五日、午前二時、「非常呼集」のラッパがま夜中のやみになりひびきました。「またかッ」と思いながらとび起きて軍装をととのえました。上官は「第一装(戦争の服)で出ろ、開戦だ」と言っていますが、こちらは、伍長にはなっているし、「また練習だろう」と思っているので、重たい物や大切なものはそのままにして、平素ためていたキャラメルやヨウカンなどを背(ハイ)のうにつめこみました。夜明けまえ、いよいよ出発、みんな「ふっふー」言っています。私は「すたこらさっさ」で身軽るなものです。「もう、だまされんぞ。」しかし、これがまちがいでした。とうとうそのまま行って二度と住みなれた第三〇六部隊の兵舎へは帰ってきませんでした。零下三十度であっても、私たちを暖ためてくれた大きなペーチカとも、私の大事な写真や記念品などを入れた整とん箱(戸だな)とも永遠の別れで、今もなほ、なつかしさと、おしさが胸にせまってきます。ペーチカは二人でやっと取りまける大きさで銀色に光って円とう形、部屋の片すみにデンと坐って天井をつきぬけています。屋根の上はま四角でサンタクローズがは入りそうな煙とつになっています。石炭を一晩中たいて部屋の温度を上げるのが二等兵、一等兵の仕事でした。たりない石炭を、よその中隊から、こっそりぬすんでくるのも、あわれな新兵の仕事、ペーチカで涙を流し、涙をかわかしたのも思い出です。
私たちはその日のうちに、牡丹江(ボタンコウ)の雪の草っ原について、この日から三十一日間、天幕の家で寒空をすごしました。
2010 年 9 月 1 日
戦争の話(18)
<橋爪一郎従軍記>
やりそこねの巻
兵隊の位はなかなか上りません。成績が良くても上等兵になるまで丸一年、その上の兵長になるには丸三年、下士官の伍長になるには四年も五年もかかるのが普通です。私は、兵長にはならないままで、丸一年で伍長になりましたので、同じ日に入隊した友達には気の毒でした。早く進級するかわりに、毎日毎晩がたたかれどうしで、その点では友達の方が同情してくれたほどでした。兵隊になって丸一年目の一月十日は、待ちに待った日、金すじに一ッ星の伍長になる日、兵長以下の兵隊とは別れて下士官室に寝られる日でした。初めて伍長になったばかりの私達五名は、消燈(ねる時間)になると同時に兵長ども七八名を兵舎の裏庭に呼び集めました。ふるえ上るほどに寒い晩でした。ゆうべは私達は上等兵で、この兵長どもにさんざんたたかれているのです。今日は、こっちが伍長で、むこうが兵長、今日の日こそと、大きな声で「この野郎!!兵長ぐらいでしこるな(いばるな)!!」後は、力一ぱいボカボカボカとやりました。良かったのはここまで、それから後は、こちらの方がゆうべのようにさんざんたたき上げられてしまったのです。考えて見れば、私たちは、まだ一度も人をたたいた事がなく、相手は兵隊の飯を四五年以上も食べている先輩ばかりです。たたき方も外から見るように簡単なものではありませんでした。新まいの伍長の初仕事は完全にやりそこねて、細長い顔もまるぶくれ、思い出の日が近づきました。
2010 年 8 月 31 日
戦争の話(17)
<橋爪一郎従軍記>
犬の飯(メシ)の余りはうまいの巻
兵隊になって、丸一年たてば成績の良い者は三ッ星の上等兵になります。私は別の進み方で行きますので、丸九ヶ月の十月十日に上等兵に進級出来ました。昨日まで一しょだった一等兵の友達も、今日からは号令、命令で連れて行けることになります。上等兵になると、あちらこちらへ自由に行ける事が多くなって楽しみもふえ、また仕事と苦労も多くなります。腹は一等兵なみに減ってペコペコです。
私と一しょに入隊して、体の調子が悪くて軍用犬係りになった江崎という者がいました。少しはなれた所にいて、会うことがありませんでしたが、上等兵になってやがての時でした、何げなく通ったそこに江崎がいて「敬礼」しています。「おお江崎」「やあ、橋爪・・・・上等兵殿・・・か。」その時、江崎はまるまる肥え太った二等兵でした。その後の話しをしているうちに、犬にかまれた話や犬の飯の話しになり、「犬の飯が余って困る」ということです。配給分を食わせないとたたかれるし、食わせてしまうと腹痛を起す心配があって、毎日自分で無理して犬の飯を食べているということです。「おまや犬の飯を食うて、そんなに肥えとっとばいな。」と大笑いしましたが、「犬の飯はまだある」と言うのです。おかしさこらえて行って見ると、二度びっくり。白飯に大きな牛肉がどっさりです。人間の飯よりも、犬の方がよっぽど大臣食でした。それからは、チョイチョイ行って犬の飯の余りを食べて加勢しましたが、考えて見ればおかしな話です。
2010 年 8 月 30 日
戦争の話(16)
<橋爪一郎従軍記>
いやな思い出かずかずの巻
満州三〇六部隊でのいやな思い出を思い出すことにしました。何と言っても、いやな思い出、ふんどしを口にくわえて立っていなければならなかったこと。兵隊にはサル又はありません。上等兵の何の気のまちがいか、急にふんどし検査があって、「臭い」ということで、一等兵全員ふんどしの取りかえ、そして今まではいていたものを口にくわえて立って並びました。タオルならとも角、ずらりとなびいた白い布、一体戦争と何の関係があるのかわかりません。
雨の日に、外での演習がない時は、内務班勤務といって大掃除や銃の手入れがありますが、それでも、ひまが余って上の位の者は手持ちざた、そんな時は一等兵がよい遊び道具です。柱にしがみついて、チーチーチーとせみの鳴きまね、時には、寝台の下のせまい中をホーホケキョと言いながら鶯の谷わたり、横木の柱にぶら下って、油汗が出るまでミノ虫のまね、落ちると「糸も引かんで落ちるミノ虫は新品種やね、何言うて鳴くか言うて見い。」六ヶ月間ほとんど毎晩たたかれて、口の中は黄くただれて、からいおかずを食べるのに苦労しました。一番痛かったのは、金の鋲(ビョウ)のついた営内靴(スリッパ)で打たれた時で、目からピカピカッと光りが出て、それから先のことはおぼえません(気絶)。夜の九時から朝の三時頃までぶっ通し六時間ばかり腕立てふせをした事も、二つの山をほふく前進(いざって進む)した全員が両ひざ血だらけに皮がはげてしまったことも悪夢のような思い出です。比ぶれば戦争はもっと楽なものでした。
2010 年 8 月 29 日
戦争の話(15)
<橋爪一郎従軍記>
命か花かの巻
満州の春と秋は、冬と夏にはさまれて、びっしゃげています。ようやく氷の大地がとけたかと思うと、春、そして、またたくまに夏がやきついて来ます。忙がしいのは草花で、あっというまに芽が出て、つぼんで、サッと開かなければ夏の太陽にやけしぼんでしまうわけです。どの草もどの花も先をきそうて咲き乱れて一面の大花園、少し大げさに言えばどこかの国の御殿のお庭とでも言えそうな夢の国が満州の春、満州の秋でした。色とりどりの名も知らぬ花にまじって、まっ白のスズランにまっ白のインチュホワ(迎春花)は何よりもかわいいものでした。背の丈20センチぐらいの山ゆりに10センチもあるようなラッパ形のまっ赤な花がゆれているのはとても印象的でした。そんな美事な大自然の花畑の中で、いつものように戦争のけいこがくり返されていきました。「前進!!」「止れ」班長の号令一下、私たちは一目散に走り出したり、パタッとねたり、又走ったり。私は足もとのスズランのあまりのかわいさに、バタッと倒れなければならない所を、静かにそっとねていました。「コラッ!!橋爪一等兵!ここは学校じゃないぞッ!!」私が先生であったことはみんな知っていました。「花が大事か、命が大事かッ?」そしてボカボカボカッとたたかれて、くやしさで胸一ぱい、近くの一等兵は、声を立てずによごれた歯で笑っています。小さい心で、足でふみにじったスズランをかわいそうに思いながら、「花か命か、花か命か」とくり返しましたが、忘れられない満州の花畑です。
2010 年 8 月 28 日
戦争の話(14)
<橋爪一郎従軍記>
休戦ラッパ鳴りわたるの巻
戦争開始で、私達は完全軍装(グンソウ)の油汗、冷汗。誰もがだまっているけれども、心の中では家のこと、親のことなど考えながら先へ先へと進んで行きました。私も『家に手紙を出しておけば良かった』『このまま死んでしまうのだろう』と胸の中は一ぱいでした。昼頃、広い野原までやって来ましたが、敵は静まりかえって何事もありません。『戦争はこんなに静かなものだろうか?』所が静かなはずです、はるか遠方よりラッパのひびき、そして私たちの部隊のラッパ手も大きな音で休戦のラッパを吹きならしました。私たちは完全にだまされていたのです。実戦通りのケイコだったわけです。ゆうべからふるえていたことがおかしくもあり、腹立たしくもあり、また、こんなにもまんまとだまされるものかと感心もし、兵隊という所がどこまで妙な所だろうかとつくづく思いました。
実は、年に二、三回、こんなケイコがあるのですが、私は、二度目も完全にだまされ、その時も本当の戦争かと思いました。三度目は半信半ぎ、四度目は始めから、ウソだと思って、荷物は軽く、うまい食べものだけ、着物も下着の方は古物でいつもの通り、大事な品物はみんな兵舎においたままで出かけました。このことは又後で書くつもりですが、その四度目はケイコではなくてホンモノでした。昭和19年2月24日朝3時、四度目の非常呼集は忘れもしない満州三〇六部隊さようならの日だったわけです。しかしさようならの前に、もう一、二回だけ、この三〇六部隊での思い出をつづりたいと思います。休戦ラッパ後のかえり道の弾薬の重いこと、それも忘れられない思い出です。
2010 年 8 月 27 日
戦争の話(13)
<橋爪一郎従軍記>
戦争開始のラッパ鳴りひびくの巻
ま夜中に「非常呼集」の合図で飛び起きて、それから戦争のケイコに出て行く事はたびたびでした。まっ暗やみにねぼけヅラ、石につまずいてひっくり返って目がさめるのが人なみで、一晩に四回も五回も非常呼集があると、ひっくり返ったまま眠っている兵隊も時には出て来ます。上等兵に起こされて、目の玉から火が出るくらいヒッパタかれて顔はまるばれ、こんどは、目がはれふさがるといった具合です。どんなにたたかれても死にはしませんが兵隊はつらいものです。
すぐ目の前はにらみ合った敵の国、ソ連の国、とつぜん「戦争開始」のラッパがトテトテターと鳴りひびきました。さあ一大事、部隊長以下全員ガバッと飛び起きて戦争準備です。一等兵の私たちは、何だか膝のあたりと奥歯がガタガタふるえて「もの」もよく言えないくらいです。今まで着ていたものは軍服、シャツ、ふんどしまでみんなぬぎすてて新品に着がえます。靴も帽子もみんな新品(第一装)、背(ハイ)のうには十日分位の食料と大事な自分の品物など。実弾百二十発に戦車地雷一コ、パイナップル型手りゅう弾三発、天幕、外とう、円ピ(スコップ)など一式。それはまた大変な品物です。全部体につけると立ち上がるのがヤットコサ、しかし、それだけかついで整列、隊長の命令号令で敵の方に向って前進しました。あまり遠くへ行かないうちに、汗だくだく、夜が白々と明け始めました。まだ弾丸(タマ)の音は一ツも聞えません。「ああいよいよ日ソ戦争、名誉の戦死か」心の中でつぶやいて覚悟をきめました。誰の顔も汗だくのくせに青白く見えます。そして・・・・・
2010 年 8 月 26 日
戦争の話(12)
<橋爪一郎従軍記>
ドカンと一発の用意の巻
ソ連との国境の守りは固いものでした。私たちが陣取っていましたカンガシ溝の近くに臼砲(キュウホウ)部隊がありました。臼砲とはうすの大砲のことで、日本の秘密兵器の一つでしたが、これは一発だけしか射てない大砲です。ドカンと一発うてば、大砲はこわれてそれまで。その代りに、弾丸(タマ)の大きさが大きいのは直径五十センチもあります。敵の陣地に必ず落ちる弾丸で、この臼砲を射つのは、ずっと離れた所の地下の押しボタンです。今のロケットみたいなものです。いざ戦争という時にはソ連へ向ってドカンです。また、国境の川の下にトンネルをほって、敵の陣地の真下に火薬をどっさり置いてあります。これもドカンです。日本軍はあらゆる手をつくして国境を守っておりましたが、ソ連の方でも私たちをねらっておったろうし、私の真下にはソ連のダイナマイトが土深く仕掛けてあったかも知れません。こうしたものものしい戦争のかまえをしているのにソ連の方は女の兵隊だから、こちらは気合いぬけです。(その頃日本とソ連は戦争をしない約束ができていました。) 私たち満州三〇六部隊は、強い関東軍の中でも特に強いと言われていましたが、この頃から一コ大隊(約五百名)ずつ、満州をはなれてビルマや南洋の方へ移って行きはじめました。だんだん淋しくなる三〇六部隊の中で、私たちはいつ戦争になってもよい構えだけは、ちゃんとやっておりました。
2010 年 8 月 25 日
戦争の話(11)
<橋爪一郎従軍記>
鉄砲で魚取りの巻
ソ連国境スイ芬(フン)河の守りは命がけですが、楽しいものでもありました。河の真ン中を越えさえせねば、射たれる心配はないのですから、歩哨(ホショウ 見張り番)に立ってない時は魚取りがいい遊びでした。餌もいらない、釣り糸もいらない、鉄砲かついで、山坂下って川の側まで行くばかりですから簡単なものです。
水は美しくすみ切って、浅く、自然のままに流れていて、遊ぶ人もいない国境ですから、まるで魚の天国です。所で魚取りは、天皇陛下にはないしょですが、川の底に、目くら打ちに五、六発ボンボンと射ちこめばそれで準備完了、鉄砲を横において、腕をまくって一、二分もすると長さ10センチから時には30センチもあるような、ふなみたいなやつがキラキラとひっくり返って浮いて来ます。す早く拾い上げて、一丁上がり、魚は当って浮いたのではなく、脳しんとうでノックアウトの状態ですから、二十も数えているとキラッと返って、泳いで逃げてしまいます。
この河、冬はすっかり氷ってしまって、アスファルトよりもスペスペの立派な道に変ってしまいます。氷を丸くほがして(石油がんの中で油をもやして氷をとかすのですが)、釣り糸でつると時たまかなり大きな魚がつれることがあります。しかし冬は寒くて、遊びにならないのでめったに魚取りはしません。
国境の夜は、昼間とは変って、急にぶっそうな、うす気味悪い事ばかりです。あちこちに、意味のわからない電灯の光りがピカピカと何回も光ったり、キリキリと輪をえがいたり、花火の様な照明弾が上がったり、それ等は、みんなスパイたちの暗号です。いつ後からブスッと串(クシ)ざしに殺されるか、昼の魚の二の舞が夜の私達です。
2010 年 8 月 24 日
戦争の話(10)
<橋爪一郎従軍記>
目の前は敵の兵隊さんの巻
一等兵になると一ヶ月交替ぐらいで、ソ連(ロシヤ)との国境の警備に出て行きます。国境はスイフン河の水の中央です。河をはさんで、こちら(日本)もあちら(ソ連)も山でした。ウラジオストックまで約二十里、いざと言う時はそこまで一日です。その頃はソ連と日本はまだ戦争をしていませんので、どちらも割にのんびりしていました。ただ絶えず双眼鏡でお互いに相手の様子を見合っているだけです。目の前にずらり並んだソ連のトーチカをにらんでは(実はながめては)何時ごろ何人動いたと、日誌に記入していくのが毎日の仕事です。それでも、鉄砲の中にはいつも実弾をつめていました。いざ戦争と言う時の用意と、きじやのろ(鹿みたいな動物)が出た時に取って食べる用意の実弾でした。ソ連も時々ポンポン言わせます。そんな時は、やっぱりやってるなと思いました。そして何時頃どちらの方向でソ連の銃声何発と日記にしるしておきます。
十八年の終り頃に私たちがカンガシ溝(コウ)の国境警備に行った時には不思議な事がソ連の方に起っていました。トーチカの兵隊は殆んどが女で男の兵隊はとても珍らしくなっていたのです。私たちはソ連の女兵隊を兵隊さんと呼んでいました。ソ連の兵隊さんもお便所は日本の女の人と同じようにかがんでしていました。この事はソ連も日本と同じようにトーチカには便所は作ってなかったわけです。日本一と言われた満州国境警備の私たち関東軍の目の前には、ソ連の女の兵隊さん、関東軍はまるで馬鹿にされたみたいです。それはソ連の名作戦でした。
2010 年 8 月 23 日
戦争の話(9)
<橋爪一郎従軍記>
星がふえて嬉しかったの巻
兵隊は星の世界、夜の世界みたいなものです。油断をすれば、鉄砲でも、軍服でも平気でなくなり、人に見つからないように、人の物を持ってくれば上官は知らぬふりをしてくれます。兵隊では、いつどんな時でも、きまった物をきまった数だけ持っていることが一番大事で、一品でもたりなかったら、ほほっぺたの丸ばれ(たたかれて)はまちがいなしです。
物が足りない時に、それをそろえる-員数つける-のは二等兵の仕事で、実につらいものです。どろぼうの名人になるために二等兵は死にもの狂いの努力をしなければなりません。目の玉は、ギョロリと光って、耳は、ちょう音器のようにとがっていなければなりません。
死ぬような六ヶ月をすぎて、私は外の者より半年先に、忘れもしない七月十日に一等兵になることが出来ました。二ッ星です。今までただ一度も、号令をかけて人をつれて行ったことのなかった私は、今日からは、一ッ星の子分をつれて行くことが出来るのです。一ッ星の中には、一年も二年も前から兵隊に来て、成績が良くなくてそのまま一ッ星の者もたく山います。二年すぎて一ッ星の者を古兵殿といい、三年すぎても二等兵の者を神様とよんでいましたが、そんな者よりも二ッ星の方が位は上です。今こそヤセギッチョンの私もその頃は六十五キロをこえていましたので大きな声でいばって一等兵をつとめました。
四月一日生れの私は兵隊の中では一番年下で、二等兵はみんな年上、いい気持でした。
2010 年 8 月 22 日
戦争の話(8)
<橋爪一郎従軍記>
満州は暑かったの巻
五月上旬雪どけ、六月やきつくような真夏、春はわずか四十日ばかりです。春は花園、目もさめんばかりの忘れられない花の春の話は後にして、満州の夏の話です。
満州の太陽は日本のよりまん丸く、昼は金色、夕方は大きくて黄色、そんな気がしました。だだっ広い荒野の端から朝日は昇って、再び土の荒野に沈んで行きます。七月はま上に太陽があって、自分の影は足のまわりに黒くまん丸くうつります。そんな時が一番暑い時、そしてその暑い最中を使って、飛行機を相手の夏季大演習が始まるのです。
鉄かぶとをかぶって、体中すっぽりとギソウモウと言う目の荒いあみをかぶります。そのあみの目に所かまわず木の枝、草のつる、何でもかでもさしこんでつけるのですが、出来上りは、まるで一ッの人間のやぶ、人間の森です。飛行機から見えないようにぎそうして歩くわけです。こんな時は暑い寒いの段では勿論ありません。汗はタラタラ、目は汗の塩でまっかです。首すじには、白く汗の塩が筋を引きます。飛行機が来れば、一せいに座って、実弾(本ものの弾)で射ちます。飛行機が引っぱってくる吹き流しを射つわけですが、飛行機の方を射ちます。後で吹き流しに当った丸の数で私たちの成績がきまるのですが、暑さのやけくそで飛行機の方がねらわれてしまいます。暑い上に昼食は煙が出ないように火のかんづめを使ってたくので苦労と暑い事この上なし、満州の夏は地獄の火の釜でした。
2010 年 8 月 21 日
戦争の話(7)
<橋爪一郎従軍記>
満州は寒かったの巻
「寒い」という言葉はまだ暖かい時に使うもののようです。痛くてどう言いようもない時がほんとうの寒さであることを、満州で初めて知りました。
リンゴはガラス玉のように氷って、小刀の刃も立ちません。にぎりめしをかめば、歯がかげそうで、一粒もはずれません。
炊事場の倉庫にはトウフ、コンニャク、ジャガイモなどレンガや石ころそっくり。けんかでもして投げ合うなら、コンニャクでもりっぱなけんか道具になりそうです。大便が氷り、小便が氷り、川が全部氷の道になってしまいます。
一年中で一番寒そうな時を特にえらんで年に一度の冬季大演習が行われます。
全身を毛皮の服でつつんで、目の玉だけがはだかのまま、鉄砲も金の所は布でつつんでしまって、めったに金の所を外に出しません。うっかり、素手のままで金をにぎったら、手の皮がひっついてはずれないのです。どんなに寒い日でも、何もかも我まんして、だまって働くのが二等兵ですから、上等兵などが火をたいてあたっていても、私たちは、ただ、まきを見つけて運んで持って行くばかりです。
「おい、二等兵寒いか?」「ハイッ、あまり寒くないであります。」「おお、そうか、そりゃ都合がよいな。」ざっとそんな調子、「ハイッ、きのうより寒いであります!!」「そうか、凍傷(トウショウ)にかからんごと動くがいいぞ、まきさがして来い。」どちらどう答えても、一冬中火の側に行きつくことは殆んどありません。レイ下四〇度、そのおみやげが今も私の左足親指に凍傷痕(アト)として残っています。
2010 年 8 月 20 日
戦争の話(6)
<橋爪一郎従軍記>
夜と昼とあべこべの巻
四月八日から翌年の二月二十四日までの三百二十三日間が私の満州三〇六部隊生活のすべてでした。寒くて、暑くて、又冷えて、心も体も日本刀のようにきたえ上げられた満州一ヶ年には色々の思い出があります。
ようやく五月の半ば頃、生れて初めての生活が、私達一ッ星を待っていました。それは、夜と昼が完全にひっくり返った十日間ぶっ通しの戦争けいこです。
夕方五時半に、起きれのラッパがなりひびいて、全員一せいに朝の体操に、朝の飯、昼べんとうをもらって、夕方八時から演習に出かけるわけです。だんだん昼べんとうが近づくにつれて、あたりは、だんだん暗く、だんだん冷えていきます。どこも、ここもまっ暗、くぼみに落ちこんだり、土手に突き当ったり、手さぐりで弁当食べたり、てんやわんやです。寝とぼけて、迷い子ではなく、迷い兵隊にでもなれば、上等兵殿からホッペタをたたかれます。そんな時には、たった一つの星がにくらしく、空の星でも取ってつけたい気持ちになります。
夜がしらじらと明ける頃、そして鶏が鳴く頃に、ようやく疲れ果てて、兵舎へ帰って来るのですが、朝の六時が夕食で、午前九時にお休みなさいのラッパがなりわたります。かんかんと日の照る日中に夜の夢を見なければなりませんが、始めのうちはなかなか眠れません。昼の十二時になっても昼食は無く、ねずみもさわがず、全く変な十日です。しかし実に役立つ演習でした。
2010 年 8 月 19 日
戦争の話(5)
<橋爪一郎従軍記>
到着・・・・・四月八日(おしゃかさまの日)、満州、牡丹江(ボタンコウ)省、第三〇六部隊、第五中隊三田隊荒川隊入隊・・・(東寧(トウネイ)のすぐ近くです。)
はじめて見た朝鮮は、家の形、住んでいる人の服装、くわえている長いきせる、店のかまえなど、日本内地とは全くかわっていました。何もかも珍しく、キョロキョロしながら、半日間を釜山で過ごした私たちは、昼食頃から動き始めて、朝鮮の汽車に乗りこみました。汽車は日本海の方を、闇の中をあまり速くもない速さで通って行きます。時々、がたごと音を立てると、疲れ切った私たちは、あくびをしながら、沈む心配の代りに、脱線のことなど話し合っていました。脱線した方が良いと言う者もいます。私はどうなっても良いような気持ちでした。どうせ死に行きよるような気がするのです。一晩、うつらうつら眠っている中に、汽車は元山を過ぎて、清津(今の羅津?)につき、日は高々と上っています。窓から見渡す山々は、どこもまっ白の雪、いよいよ満州との国境に到着、一時下車した時は、駅までまっ白でした。久留米でやっとこさ、寒い冬に別れを告げて来た私たちは、満州の入り口で、同じ年に二度目の冬を迎えたのです。朝鮮の北端から、宮城と、故郷の八女郡に、お別れの捧げ銃(ささげつつ)をすまして、再び汽車へ、そして満州へと進みました。どこかで汽車を降りた時、その地満州の第一歩は氷るような寒さ、何も見えない雪の銀世界でした。
夕暮れに、待つはきびしい我が兵舎。
2010 年 8 月 18 日
戦争の話(4)
<橋爪一郎従軍記>
赤い夕日の満州への巻
出発・・・・久留米での三ヶ月の教育を終って、四月六日朝三時、汽車の久留米駅プラットホームに集合、まるで夜逃げのようにこそこそと満州目ざして出発です。この頃は日本の戦争の負け始めで、家の者にも知らせず、バンザイの旗の波もなく、ほんとに哀れな出発でした。汽車は博多をすぎて門司へ到着、みんながシュンとしています。誰の心にも、生きて日本へ帰れそうな気がしないのです。ナムアミダブツ、ナンミョウホウレンゲキョウ、アーメン、なんと情ない日本の兵隊さん、二等兵の私たちです。腰抜け一丁拳銃の私たち約三百人は、六日の夕方、門司の港に待ちかまえている日本の黒船に乗り込みました。二等兵は一番下の船室で、海の魚の方が、よほど上の方を泳いでいるわけです。朝せん海峡には敵のせん水艦が出没しているという、そんなぶっそうな所を、夕闇せまる頃、船は音もなく進み始めました。一時間、二時間、船は次第に横ぶれ、前ぶれ、ぎっしり並んだ私たちは芋(いも)の子のようにごろごろと転がり始めました。
「おい、やい、しずみゃするめえか?」
「しずだりゃ、死ぬかも知れんな。」
「死んだら、魚に食わるりゃするめえか。」
「食わるッ時きゃ痛かろか?」
まるで子供じみた会話で時をかせいでいるうちに、船はま夜中に釜山(ふざん)に着きました。九州出る時、桜はほんのりと七分咲き、陽気の春を後にして。
2010 年 8 月 17 日
戦争の話(3)
<橋爪一郎従軍記>
毒ガスにはへこたれたの巻
口先だけでは駄目、たとえ火の中、水の中、苦しくても実行、行きたくなくても前進、それが兵隊でした。大ていの事はがまんしてがんばっていた私も、毒ガスマスクの演習には完全にまいりました。メガネをかけたままでは面はかぶれません、といってメガネなしでは先の方が見えないのです。
幾分寒さもうすらいだ三月、演習場にはさいるいガス(涙の出るガス)をたきつめた天幕が用意されて、二等兵をいじめようと待っています。「ガス」の号令一下、猛スピードで面をかぶって天幕の中へ這入って行くのですが、ぼやぼやしていると面をつけつけ天幕の中へ押し込まれてしまいます。
メガネを片づけるひま、それに人一倍顔の長い私には面がなかなかぴったり合いません。目の玉がしばしばして、涙ぽろぽろ。約十分間幕の中にいて、やがて「前進」の命令、天幕から出て来てほっとするのも束の間、こんどはどれが自分の銃(鉄砲)か見えないのです。一番後から残った銃を持って、その上、敵の方向もわからず、「お前はほりょだ。」とさんざん油をしぼられます。だれもかれも、目は泣きはれたようにまっ赤で、困ったのは私だけではなかったようです。頭のひこくれたものは、みんなガスマスクは苦手だったようです。
動物園の「ぞう」を見ると防毒面を思い出し、炭やき小屋の「けむり」を見ると、またガス演習を思い出します。思い出はかなしです。
2010 年 8 月 16 日
戦争の話(2)
<橋爪一郎従軍記>
上津荒木(こうだらき)の池の深さの巻
もうすぐ紀元節という二月七日は特に寒い日でした。夕食もそこそこに、私たち初年兵は、鉄砲かついで、いつもの演習場(けいこば)である高良台方面へオチニオチニのかけ足出発、あたりは一面まつくらやみです。背の一番高かった私は鬼中隊長の荒川中尉(鬼はあだ名、荒川は本名)のすぐ後について走ればよいのであまり疲れませんが、背の低い方は、列が長くなったり急にいそいだりしていつも苦労しています。その日は、どこをどう走ったか、西の方から上津荒木小学校横の池の所までやって来ました。手先と耳たぶだけつめたくて、体はぽかぽかです。
中隊長やにわに空までとどく大きな声で「今からこの池の深さをはかる。どうするかッ?!」誰かが「さおを立てて調べるであります。」「なわに石をつけてはかるであります。」私は「石をなげて音でしらべるであります。」と答えたとたんに、「橋爪二等兵はかれ」とものすごい命令です。石は「ドボン」「パチャン」と太さで音も様々です。「馬鹿者ッ学校の先生はだめだッ。」二、三人笑っています。
その時でした。猪ノ口二等兵が「中隊長殿」と言うが早いか、池の中へざぶざぶと這入って行ったのです。中隊長は「そうだッ!!続け!!」の号令一下、腰の軍刀サツと抜いで、首までジャブジャブ。私も首までずぶぬれ、しかし背の低い方はひざまで位。「この池は渡らぬ」の隊長の命令で引き返しましたが、その池は思い出です。
2010 年 8 月 15 日
戦争の話(1)
<橋爪一郎従軍記>
私の父、一郎は、私が小学生の頃、八女郡の辺春中学校の教員をしていました。
蝋紙に鉄筆を走らす音が私の子守唄でした。
当時(1963年)の、ガリ版刷りの「学年通信」の1年分(No.1~23)を保存しています。
そこに父の従軍記の連載があったからです。
父には、次の世代へ「戦争」を伝えねばならないという思いが強かったのだと思います。
今や私は、当時の父の年齢をはるかに上回っています。
さらに次の世代へと「戦争」を語り継ぐのが、父の子である私の役目です。
終戦記念日を迎えるにあたり、父の従軍記をしばらく連載したく思います。
父が本学3年生と同じ年の頃の物語です。
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勝って来るぞと勇ましく
負けて帰ったわたしの日記
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始めに。一年生を受け持って、御父兄の皆さん方にお会い出来るのも何かの縁に違いありません。私の従軍日記をお送りすることによって、紙上家庭訪問としゃれたいと思います。どうぞお笑いください。
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橋爪二等兵殿の巻
「昭和十八年一月十日 久留米歩兵四十八部隊第五中隊入隊 大日本帝国軍人陸軍二等兵となる。」これより下の位は一人もないので、掃除、洗たく、靴みがき、飯の用意から後始末まで休むひまなしの女中生活が始まるわけですが、その話はしばらく後廻しに致します。
体が強くて、兵隊にならない方法、それは学校の先生になることでした。五人兄弟の末っ子の私に、先生への道をえらばしたのは、兵隊になしたくないばっかりの、父母の考えが強かったためでした。しかし、その甲斐もなく、若松市島郷第二小学校の先生々活二ヶ年間に別れをつげて、私は兵隊さんにならなければなりませんでした。
その時二十一才、ハイカラ髪をいがぐり頭に刈り落した私の頭は青白くて、ひこくれていて、あちこちとんがって、おかしなかっこうでした。ただハゲのないのが何よりでした。
先生の洋服をすっかり軍服に着替えた私は、心の中では兵隊を嫌いながらも、どうせやるなら早く位が上ったが得だと、がんばることに決心いたしました。
2010 年 8 月 14 日
被爆者と放射線被曝(入市被曝と救護被曝)
第二号の被爆者は、直接被曝ではありませんが、救護活動や肉親探しなどで爆心地へ近づき、残留放射線による被曝を受けた被爆者です。
直接被曝を受けた物質が「放射能」を帯び、しばらく放出を続けるのが「残留放射線」です。
残留放射線は物理現象なので、理論的に線量を推定することができます。
投下後2週間以内に爆心から約2キロ以内の区域に立ち入った人は被爆者健康手帳の交付が受けられますが、土壌や建築資材が帯びた放射能は時間単位で急速に減衰しますので、推定被曝線量は、爆心地に原爆投下日から数日間居続けない限りは、遠方の被爆者と同じくらいです。
推定被曝線量が少ないことから、入市被爆者の原爆症認定についても審査会の判断と裁判所の判断とは大きく異なっており、がんになった入市被爆者には健康管理手当は支給されても医療特別手当は支給されていません。
第三号被爆者については、爆心から2キロ以遠であっても、原爆投下後2週間以内に、救護・看護・運搬・死体処理等の作業などにより、負傷した被爆者に1日あたり5人以上に触れた者や、負傷した被爆者が多く集合した環境に相応の時間とどまった者へ被爆者健康手帳が交付されています。
負傷した被爆者が放射能を帯びて「残留放射線」を放出している可能性があるからという理由ですが、現代の放射線物理学では、そのような状況下での被曝線量は無視できるほど微量だと推定できます。
医療機関の放射線治療施設でも、患者の治療に従事する医療スタッフに「救護被曝」の心配はありません。
しかし、被爆者健康手帳の交付をめぐる訴訟(平成21年3月25日広島地方裁判所判決)においては第三号被爆者の審査が厳しいとされ、現行の審査指針へと緩和されています。
裁判所の判断では、科学性だけではなく、公平性など他の判断因子が加わります。
2010 年 8 月 13 日
被爆者と放射線被曝(直接被曝)
被爆者へは被爆者健康手帳が交付されます。
医療の給付や手当の支給は被爆者健康手帳の交付を受けていることが条件です。
被爆者対策は、大空襲ほかの一般の戦争被害者とは異なる特別の対策です。
それは、放射線被曝による障害が戦後いつまでも発生し得るという特別の状況があるためです。
原爆の熱線の影響や爆風の影響は遥か遠方まで及んでいますので原爆による被害の範囲は広いのですが、法的に被爆者を定義する場合は、原爆放射線を「被曝」した可能性がある範囲の人に限定されます。
被爆者援護法における被爆者は、次の4つのいずれかです。
一 原子爆弾が投下された際当時の広島市若しくは長崎市の区域内又は政令で定めるこれらに隣接する区域内に在っ者
二 原子爆弾が投下された時から起算して政令で定める期間内に前号に規定する区域のうちで政令で定める区域内に在った者
三 前二号に掲げる者のほか、原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
四 前三号に掲げる者が当該各号に規定する事由に該当した当時その者の胎児であった者
第一号の被爆者は、爆心地から数キロ以内で原爆放射線(ガンマ線、中性子線)を直接被曝した可能性がある人と、やや遠方で放射性降下物(黒い雨)によって被曝した可能性がある人です。
放射線は、湿度の高い日本の夏においては大気中の水分に吸収されて急速に減衰し、2キロ以遠まで到達した放射線はわずかですが、それでもゼロではありません。
放射線の到達は物理現象ですので、爆心地からの距離や遮蔽条件により、理論的に被曝線量を推定することができます。
放射性降下物による被曝線量についても、不確定要素が多いとはいえ、多くの研究者が推定被曝線量を算出しています。
これらの推定に数十%前後の誤差はあり得ますが、数十倍、数百倍の誤差ということはないでしょう。
被爆者健康手帳を交付された被爆者であっても、遠方の被爆者の推定被曝線量は自然放射線や医療放射線の被曝線量以下なのですが、わずかでも原爆放射線を被曝しているのであれば、一般の人よりもその分だけ発がんリスクが高いということができます。
被曝線量が近距離被爆者の1000分の1で自然放射線量以下の被曝だとしても、近距離被爆者の1000分の1の確率で発がんの可能性があります。
実際に遠距離被爆者が発がんした場合、それが原爆放射線の影響であるか否かを見極めることは困難ですが、健康管理手当は支給されます。
被曝線量が多いと推定される場合は原爆症と認定されますが、審査会の判断と裁判所の判断とは異なっています。
2010 年 8 月 12 日
被爆者の手当について(医療特別手当、特別手当)
<医療特別手当、特別手当>
健康管理手当は、放射線の影響の可能性がある疾病にかかっている被爆者で、「原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかなもの」以外を支給要件とした手当でしたが、健康管理手当の支給要件より踏み込んで「放射能が原因で病気やけがの状態にある」被爆者に対しては医療特別手当として月額137430円が、その病気やけがが治った被爆者に対しては特別手当として月額50750円が支給されています。
健康管理手当と異なり、放射線の影響が原因であるか否かが認定のポイントですので、審査会に専門的な判定を委ねる仕組みとなっていますが、審査会の判断と裁判所の判断とが異なるケースが相次いでいます。
認定についての根拠条文は「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」第11条にあり、
「当該負傷又は疾病が原子爆弾の傷害作用に起因する」ことが認定要件です。
放射線との関連が強いとされる「がん」であっても、日本人の半数が「がん」に罹患する中、明確に原子爆弾が原因だといえるものは少ないでしょう。
実際的には、原子爆弾が原因である可能性が高いか低いか、どのあたりで線引きを行うかの判断(基準)に帰結する問題かと思えます。
被曝線量が多いか否かが線引きの拠り所となるかと思いますが、どのくらいの被曝線量であればどういう病気になりやすいかについては、日米共同運営の(財)放射線影響研究所に豊富な研究の蓄積があります。
2010 年 8 月 11 日
被爆者の手当について(健康管理手当)
<健康管理手当>
被爆者で、次の(1)~(11)のうちいずれかの障害を伴う疾病にかかっている場合、健康管理手当として月額33800円が支給されています。
なお、保健手当、医療特別手当、特別手当、原子爆弾小頭症手当との併給はできません。
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(1) 造血機能障害を伴う疾病(再生不良性貧血、鉄欠乏性貧血など)
(2) 肝臓機能障害を伴う疾病(肝硬変など)
(3) 細胞増殖機能障害を伴う疾病(がんなど)
(4) 内分泌腺機能障害を伴う疾病(糖尿病、甲状腺機能低下症、甲状腺機能亢進症など)
(5) 脳血管障害を伴う疾病(くも膜下出血、脳出血、脳梗塞など)
(6) 循環器機能障害を伴う疾病(高血圧性心疾患、慢性虚血性心疾患など)
(7) 腎臓機能障害を伴う疾病(ネフローゼ症候群、慢性腎炎、慢性腎不全、慢性糸球体腎炎など)
(8) 水晶体混濁による視機能障害を伴う疾病(白内障など)
(9) 呼吸器機能障害を伴う疾病(肺気腫、慢性間質性肺炎、肺線維症など)
(10) 運動器機能障害を伴う疾病(変形性関節症、変形性脊椎症など)
(11) 潰瘍による消化器機能障害を伴う疾病(胃潰瘍、十二指腸潰瘍など)
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これらは、いずれも放射線の影響があり得るとされている疾病です。
放射線の影響かもしれない疾病にかかっているから健康管理に気を付ける必要があるということで設けられた手当です。
支給要件として「原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかなものを除く」となっていますが、「原子爆弾の放射能の影響によるものであることが明らかなもの」に限るものでもないので、事故や薬物副作用など、他の発病原因が明らかなものでない限り、支給要件を満たします。
高齢者のかなりの割合で、(1)~(11)のどれかの疾病にかかっていますので、被爆者の健康管理手当支給率はかなり高くなっています。
2010 年 8 月 10 日
被爆者の手当について(保健手当、原子爆弾小頭症手当、介護手当)
原爆被爆者に支給される手当には、6種類の手当と葬祭料(19万9千円)があります。
<保健手当>
爆心地から2キロメートル以内で直接被爆した人と当時その人の胎児だった人への手当です。
被爆者への放射線の影響が桁違いに大きかったのはガンマ線と中性子線ですが、爆心地からの距離ごとの推定被曝放射線量は次の通りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
距離(km) 広島(mGy) 長崎(mGy)
ガンマ線 中性子線 ガンマ線 中性子線
0.5 35700 6480 83000 2970
1.0 4220 260 8620 125
1.5 549 9 983 5
2.0 81 0.4 138 0.2
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私たちが受ける自然放射線量は年0.5mGy前後、胸部X線で0.05mGy、体部CT撮影で4mGyですので、2キロ以内で直接被爆した人は、日常の何十年分の放射線量を一瞬にして被爆したことになります。
発がんや胎児への影響が考えられる線量ですので、健康であっても、保健に気を付ける必要があるということで設けられた手当です。
一定範囲の身体上の障害がある人や70才以上で身寄りのないひとり暮らしの人へは月額33800円、そうでない人へは月額16950円が支給されています。
<原子爆弾小頭症手当>
妊婦が爆心地近くで高線量の被曝を受け、胎児への影響で、生まれてきた子が小頭症となった例が数十例ありました。
生まれながらに多くのハンディキャップを背負っていますので、月額47300円の手当が支給されています。
<介護手当>
介護を要する被爆者へは介護手当が支給されています。
介護人を雇った介護費用について、重度障害の場合は月額104970円、中度障害の場合は月額69720円を限度額として支給されています。
介護人を雇わずに重度障害被爆者を家族が介護している場合は、家族介護手当として月額21570円が支給されています。
2010 年 8 月 9 日
被爆者の健康管理について
放射線の影響により病気(がんなど)になる確率が上がることから、被爆者健康診断事業が行われています。一般検査のほか、がん検査(胃がん、肺がん、乳がん、子宮がん、大腸がん、多発性骨髄腫の6種類)が充実しています。
被爆者が病気になって保険診療を受けた場合、病気の種類にかかわらず、指定医療機関での受診であれば医療費の自己負担はなく、国が負担します。
介護保険の医療系の介護サービスを受けた場合も、自己負担はありません。
指定医療機関以外での受診の場合は、領収書等の書類を添えて請求することで償還払いされます。
健康保険、介護保険の自己負担分を国が負担する制度ですので、保険財政の負担の軽減にはなりません。
すなわち、保険料を納めている国民は、被爆者の医療費分も納めていることになります。
被爆者の有病率が一般の有病率よりも高い場合は、被爆者割合が多い自治体の保険財政を圧迫することとなり問題ですが、実際は大きな相異はないようです。
被爆者の健康状態が比較的良好であることの一因として、健康管理が充実しているからではないかとも言われています。
被爆者の病気が、原子爆弾の放射能に起因すると厚生労働大臣が認定した場合、保険分についても全額国が負担します。
認定を受けるには、認定申請書、医師の意見書、健康診断書などを添えて厚生労働大臣に申請します。
この認定を受けることは、医療特別手当や特別手当の支給を受けるための要件となりますが、原子爆弾の放射能に起因しないと審査会に判断された場合には却下されています。
2010 年 8 月 8 日
平和を祈念するための事業
被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)に「平和を祈念するための事業」の規定があります。
第四十一条 国は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う。
この条文を受けて設置されたのが、
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/)
と
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(http://www.peace-nagasaki.go.jp/)
です。
法の制定以前より、広島にも、長崎にも、「原爆資料館」や「追悼の場」が存在していますが、それらは自治体が設置、運営しているものです。
屋上屋ではないか、と設置計画に否定的な意見もありましたが、被爆者援護法制定過程において、原爆死没者に対する「国」の姿勢を明確にすべき、という国会の意志(国民の総意)が確認され、ようやく開設に至ったのが、これらの国立施設です。
設立の経緯は、原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会最終報告(平成10年9月)(http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1009/h0928-2_11.html)に詳しいですが、この検討会には私も長くかかわりました。
国境を越え、世代を超え、国としての恒久平和のメッセージを発信する拠点として開設されたもので、この目的実現のため、開設当初より、インターネットが活用されています。
広島も長崎も、遠方の人はなかなか訪れることができませんが、これらのホームページで、被爆体験記や証言映像に触れることができます。
8月の祈りのひととき、しばらくこの施設でネットサーフィンの手を休め、平和を祈念したく思います。
2010 年 8 月 7 日
核兵器のない世界の実現
広島の平和記念式典に、核兵器保有国のアメリカ、イギリス、フランスの政府代表が初参加しました。
国連事務総長も参加しました。
アメリカ政府代表のルース駐日大使は昨年10月にも広島を訪れて献花し、「核なき世界の平和と安全保障に向けて協力する大切さを認識した」と記帳しています。
昨日は、大使館を通じて「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかねばならない」とのコメントを発表しています。
国連の潘事務総長は、あいさつの中で「被爆者が生きている間に、核兵器のない世界という夢を実現しよう」と呼び掛けました。
昨年4月のオバマ大統領のプラハ演説以降、核軍縮の機運が高まっています。
世界中が、唯一の被爆国である日本政府が発するメッセージに注目しています。
潘事務総長は、日本政府がリーダーシップを発揮すべきだと明言しています。
機を逸してはなりません。
日本政府の俊敏で力強い行動こそが、核兵器のない世界の実現の鍵です。
折も折、「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」の非核三原則の見直しの議論がなされているようですが、さらに「持たせず、作らせず」を加えた五原則にするような議論を世界は日本に期待しているのだと思います。
2010 年 8 月 6 日
被爆者援護法の前文
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成六年十二月十六日法律第百十七号村山内閣)」には第一条の前に「前文」があります。
前文がある法律は珍しいのですが、この前文に、法の制定に携わった方々の思いが凝縮されています。
「核兵器の究極的廃絶に向けての決意」が日本国の法規に明記されたことの意義と意味を噛みしめたく思います。
(前文)
昭和二十年八月、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類のない破壊兵器は、幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとい一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持及び増進並びに福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し、医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また、我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
ここに、被爆後五十年のときを迎えるに当たり、我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国の責任において、原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ、高齢化の進行している被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。